わたしに、先生の事を守らせてください!

 ──な、何するんですか! 放してくださいっ!

 ──ああ、サラちゃん……あの頃の、ままだ……!

 ──何の、話ですか──むうっ!?


 サラは抵抗したものの、男は人目も憚らず強引にサラの唇を自らの唇で奪いとる。

 まるで貪るような、乱暴さだった。

 だが、サラは不思議な感触を覚えた。

 その味に気色悪さは全くなく、むしろ覚えがあるものだったから。

 そこで、ようやく気付いた。


 ──先、生……?

 ──ああ、そうだよ、サラちゃん……!

 ──一体、どうして──むうっ!?


 どういう事なのか聞く前に、口づけは再開。

 まるで正気を失ったかのように、先生はサラを求め続ける。

 口づけは頬や首元に及び、手はサラの豊満な胸を鷲掴みにする。


 ──せ、先生……っ! どうしたん、ですか……っ!


 なす術なく、近くにあったベンチに押し倒された。

 だがその直後、先生は急に動かなくなってしまった。


 ──先生?


 サラが呼びかけても答えない。

 それどころか、そのままベンチから力なくずり落ちてしまった。

 その両目は、力なく閉ざされている。

 気を失っているのは、明らかだった。


 ──先生!? しっかりしてください! 先生っ!


 何度呼びかけても返事はなく、サラは急遽空港の医療スタッフを呼ぶ事になった。


 その後サラは、医師から衝撃の事実を聞かされた。

 先生の体は歩く事もままならないほど傷だらけであり、精神状態もかなり不安定だった。

 普通なら、ウクライナからスルーズ諸島に渡る事など到底できないレベル。

 もはや何かの執念に突き動かされていたとしか言いようがない、と医者は言っていた。

 サラには、思い当たる節がひとつしかない。

 自分自身だ。

 自分に会うためだけに、ボロボロの体に鞭打ってスルーズ諸島まで来たというのか。

 サラは、抱き締めてくる直前の、先生の目が強く印象に残っていた。

 砂漠をずっと歩き続けて、やっとオアシスにたどり着いたかのような。

 いや、「助けてくれ」と懇願していたかのような──


 容体が落ち着いたところを見計らって、サラは病室で先生と面会する事ができた。


 ──ごめん、サラちゃん。サラちゃんを見た瞬間、いろんな感情が出てきて、つい……


 窓辺にもたれかかっていた先生は、サラを襲うも同然の事をしてしまった事に、ひどく落ち込んでいる様子だった。

 そこに、かつての頼れる先生の姿は、どこにもない。

 一体何が、先生を変えてしまったのか。


 ──いいえ、気にしないでください。それより、教えてくれませんか。一体何が遭ったんですか、ウクライナで?


 サラが聞くと、先生は少し迷った様子を見せたが、口を開いた。


 ──見ての通りだよ。僕は、何もかもなくしたんだ。故郷も、親兄弟も、戦う力さえも……


 そう。

 先生は不幸にも、戦いに敗れたのだ。

 サラは、留学していた時に聞いた事を思い出す。

 どんなに優れた兵士であろうと、ほんの些細なミスで死に繋がる事があると。

 曲がりなりにもエースであった彼でさえ、ここまでボロボロにしてしまった戦争の残酷さを思い知ったサラは、もし自分も行っていたら、と想像しただけで悪寒が走った。


 ──そんな……

 ──もう、何のために戦ってたのかもわからなくなって、休養を装って逃げてきたんだ……サラちゃんに、会いたくなって……


 しかも先生は、脱走兵にまで落ちぶれてしまっていた。

 かの戦争で過酷な戦場に耐え切れず脱走兵が多く出ているという話はサラも聞いていたが、先生がそうなってしまったという現実に、言葉が出ない。


 ──情けないだろう? いい迷惑だっただろう? こんなに、見るも無残に変わり果ててしまったら……


 自嘲する先生の顔は、悔しさと罪悪感に満ちていた。


 ──僕にはもう、帰る場所なんてない……ここにも、いつまでもいられない……でも、最後にサラちゃんの元気な顔を見られて、安心したよ……


 先生は、おもむろに窓を開ける。

 だがそれは、風を入れるためではない事に、サラはすぐに気付いた。

 先生は、窓に腰かけて、そのまま外へ身を乗り出そうとしていたのだ。

 ここは、建物の3階。下はアスファルト。落ちたらどうなるかは、誰でもわかる。


 ──さようなら、サラちゃん。君と出会えて、本当によかった……

 ──ダメェェェェッ!


 反射的に、サラの体が動いていた。

 先生の体を無理矢理引っ張って、室内に引き込む。

 そのまま、先生がサラに覆い被さる形で、倒れ込んだ。


 ──どう、して……?

 ──そんなの、ダメですよ……! だって、だって先生は、何も悪い事なんてしてないじゃないですか! ただ一生懸命戦っただけじゃないですか! なのに、なのに、もうダメだって終わりにしちゃうなんて、悲しすぎますよ……っ!


 サラは、先生をぎゅっと抱き締めながら、訴えた。

 その腕は震え、目からは溜め込んだ感情が涙となって零れ始めていた。


 ──でも、僕は──

 ──本当にそうしたいんですか!? じゃあどうしてそんな、助けてくれって目をしてるんですか!?


 そう指摘すると、先生が黙り込む。

 サラは気付いていた。

 先生は、自分に救いを求めているのだと。

 ならば、何としてでも助けてあげたかった。


 ──なら、どうやって僕を助けてくれるんだい……?


 先生のそれは、試すような問いかけだった。

 綺麗事を言うだけでは、根本的な解決にならない事はサラもわかっていた。

 戦争で何もかも無くし、帰る場所さえない先生を救う方法は、ひとつしかない。

 まだ20年も生きていない身では早すぎるかもしれないが、サラに迷いはなかった。

 サラは先生と一緒に体を起こし、両手を強く取ってて思いを告げる。


 ──先生……わたしと、結婚してください! 結婚すれば、一緒にこの国で暮らせますから……わたしに、先生の事を守らせてください!

 ──サラちゃん……


 なお、先生が逃げ出した戦争そのものは、現在もまだ終わりが見えていない──

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