第20話 教官と、とある策士
軍から離れるにあたり優里は前準備はした。突然消えようものなら混乱することは目に見えている。十分に準備し、残された者が困らないようにする事も大事な業務だ。教官としてそれを見せねばなるまいと思った。
そんななか、優里は礼を直接伝えたいという明花に後宮へ呼び出された。
「その後、お変わりはありませんか?」
用意された椅子にも座らず、床に片膝をついた優里は手のひらに拳を当てて両手を頭上に掲げる。そして両袖に顔を隠すようにして頭を垂れたまま明花に問うた。
「はい。優里教官も斧一本で荒ぶる猪を仕留められたとか。お元気そうで何よりです」
人払いし、明花と二人だけの居室にて明花は笑顔で答える。
「……」
袖に顔を隠したまま一向にこちらを見ようとしない優里に、先に音を上げたのは明花だ。
「もー!! 二人きりなんですから、そんな態度はおやめください」
明花は憤慨する。華美なものは動きにくいと言う明花は他の後宮の女達に比べ今日も質素な装いだ。
「いやいや、そのうち妃になろうという方にそうはいかんだろ」
「それがですねぇ、聞いてもらえます? 私、本当に妃なんてなる気はないんですよ。本当に、座ってくださいまし」
「そうなのか? てっきりすっ転んでどんくさい所が可愛いと見染められて可愛がられてるのかと思ってたが」
優里は礼を崩し、どっかりと椅子にかけた。朗らかに笑う優里に明花は目を泳がせる。
「あれはちょっと躓いたんです。後宮の人間って欲望むき出しなのにひた隠しにしてるじゃないですか」
「何もない所で躓いたのか? 後宮はつらいか?」
「足が絡まったんです。ここでの生活ですか? 優里教官の朝餉前の訓練よりも楽ですよ。楽しいです。毎日、人間観察をしています。本当に飽きません」
明花は恍惚とした表情でうっとりと笑った。
優里の教え子は皆そんな事を言う。年ばかり取った狭量の年長者からの嫌がらせを受けた若い兵達に「大変だったな。よく耐えた」と労えば「優里教官の訓練に比べれば可愛いものです!」ときらきらした笑顔で自信満々に言うのだ。
そんな彼らを優里は「気を遣って、なんて健気なんだ」と受け止めているが、教え子たちは皆心の底からそう思っている。優里教官の鬼畜な訓練に比べれば軽いものだ、雑魚同然だと。
優里の訓練により教え子は総じて鉄の精神と忍耐力を備えるのだ。
「自分の足に絡まったのか? 器用だな。人間観察をするために後宮入りを受けたと?」
お互い前半に軽口をはさみつつ、器用に本題を進める。これは周囲を警戒する際に優里が使う、あえて要点を散らす独特な会話の進め方だった。
「入りたくて入ったわけではないので、それくらいの楽しみはあってもいいかと……国主様はどんくさい私を新しく加えれば、当面はどの妃の元にも通う必要がないとお考えになられたようです。召し上げられて早々に『お前に寵愛を施す気はない』と言われました。辞めたくもない情報局辞めさせられてそれですよ? しかもそれだと私一人が先輩方の標的になりますよね? あまりにも腹が立ったんで控えの隣で『そんな、愛していただけないなんて』とシクシク愚痴ってやりました」
控えとは明花付きの女官が待機する部屋だ。わざと聞かせたのだろう。
「それバラしていいのか?」
「口止めされませんでしたから。己の尊厳から言わないとお思いになられたんでしょうね。私は言いますけど。だいたい女官の口は本来、固いものです。主人を守るため絶対に胸に秘めるはずでしょう?」
「まぁな。で?」
「見事に広まりましたね! おかげでどんな繋がりが、どこまで広がっているか、情報が広まるのに有する時間も分かりました」
明花は胸を張る。最も近い女官からして心を許すことが出来ないと判明したというのに、明花は実に生き生きとしている。明花は幼げな可愛らしい顔をしているがこういう女だ。
後宮内にいる明花が猪の一件を知る機会はないはずだが、先日の式典で警備の兵に紛れ込んだ時にでも相当情報を収集したのだろう。斧を持った
「噂は広まりましたが国主様にはこれまで通り頻繁に渡るようお伝えしました。寵愛しているのか否か有耶無耶にしておけば国主様の狙いもおおむね達成できます、と。なんともろくでもないお方だと思っていましたが、強い女性を求められたのが清牙様のご発言だったと聞いてからは同情しております。ご自身の好みとは違う女性を押し付けられてたんですものね」
しんみりとした表情を装う明花を見て、これは同情なんてしていないだろうなと優里は思った。内心、大笑いしているだろう。
「優里教官が後宮を出された理由も納得したというものです。国主様の興味が向かないのに後宮にとどめておくのは宝の持ち腐れですものね。それだけはまっとうな判断だったと思います」
それだけは宰相を褒めてやれると言わんばかりの明花だ。
明花はか弱い
「まぁそんなわけで、相手に興味がない者同士ですがお互い利はあるなと思い、国主様に取引を持ち掛けまして」
国主と取り引き。愚鈍な振りをして肝の据わった明花らしいと優里は感嘆した。身体的には鈍いが、頭の回転は他と一線を画すのが明花だ。特に情報を扱う事を得意とし、後宮に異動が決まった際は情報局がひどく嘆いた。体力自慢の脳筋ばかりでは国は守れないのだ。
「国主様に後宮周辺の有益な情報を提供する代わりに、私は自由にやらせていただいています」
「それ、楽しいのか? ものすごく悪意に晒されるだろう?」
「楽しいですよ! どうしてそんな頭の悪い嫌がらせをするのか、なぜそれでばれないと思うのか。後宮の方々のすることは理解できなくて本当に面白いです」
若い娘が流行りについて話すかのように無邪気に話す明花だが、後宮に属する者はみな権力者の関係者だ。そのつながりや画策を私欲ではなく、楽しみだけで暴く明花は重宝されるだろう。後宮はときに不審な事件も起きる魔窟だ。
「先日の式典から国主様が連日連夜うちにお渡りになるので、皆さま以前にもまして盛り上がっておられます。夜のお務めは免除される約束なので私が身籠る事はありませんのに」
あれほどお渡りがあるというのに懐妊しないなんて、という嘲笑がそのうち聞かれ始めるだろう。そう明花は袖で口元を隠し、くすくすと笑う。
「……なぁ、私が聞いていい話か? これ」
国主の秘密にかかわる内容だ。優里は絶対に知ってはいけない内容である気がしてきた。
「……もし私の身に何かあった時に、真実を知る人間が必要だと思い、選ばせていただきました。失礼ながら優里教官が軍を離れるお気持ちがあるのではないかと、急がせていただいた次第です」
明花は一転して神妙な顔つきになり、立ち上がると武人の礼を取った。
「そうか、しかと」
優里は嘆息しながらも立ち上がって正式に受け止める。嘆息は拒否感からのものではなく、言っても聞かないだろう明花の身を案じたものだ。
「助けを求めたいときは父か兄達に言え。絶対だぞ? すぐ戻る」
軍を離れる準備はしていても父と上羅に告げただけだ。どこでどう情報を仕入れ、気付いたのか、本当に明花は恐ろしい。
「どうして私がここを離れると思った?」
「女の兵役制度が廃止されるのであれば、優里教官はそうするのではないかと邪推いたしました。申し訳ございません」
「いい。その通りだ。では何か情報があったわけではないのだな?」
「はい。誰もそのような事は予想していないかと」
情報が漏れているわけではないと確認して優里は安堵する。
このように誰も考えていないような事を明花は見抜くのだ。情報を武器にするだけでなく、人心を読むことにも長けた明花を軍が失うのは大きな損失だが、本人は今のところ満足しているらしい。
子栗鼠のような容姿が好みなのか、それとも身近に置いてこれほどの才能に魅力を感じたのか細かい事は分からないが、国主は明花を気に入っているのだろう。
運動神経は人並みかそれ以下だが、危険予知能力は人一倍備えている。国主の情も厚いとなればさほど心配もいるまい。自分の色恋沙汰には我楽多な優里だが、国主の本心は薄々ながら察した。明花を振り向かせるには骨が折れるだろうことも。
国主とそういったやり取りがあるのであれば、明花が何らかの策を持ってあの場にいた可能性に優里は気付く。単に人手不足や「愛する国主様のため」といった理由ではないはずだ。
「……あの日、自分が狙われることを知っていたのか?」
明花は優里の問いにまた視線を泳がせる。これが優里相手ではなければいくらでもとぼけたのだろう。今や明花の方が立場が上だというのに、訓練兵時代の名残で優里に嘘はつけないらしい。
まずい事をしてしまったかと優里は表情を曇らせて尋ねる。
「出しゃばったか?」
「いいえ、優里教官の勇ましいお姿を拝見できて本望でした! 実戦での優里教官のお姿を見られるのは私達の喜びです!」
明花は被せるように声を張った。
「それに私ではうまく見せられませんでしたので大変助かりました」
優里の目からは賊が明花を狙っていたのは明らかだった。しかし現在は国主を狙ったものと
罠を張ったのか。
優里は笑顔の明花を見詰める。
明花を狙うよう仕向け、何者かに国主暗殺の重罪を科せようとしている?
そういえば公女を生んだ妃が後宮を離れる事になったなとふと気付く。后のなかには実家が戦商売で私腹を肥やした者もある。
そのあたりに何か関係しているのかもしれない。
「そうか。それならいいんだが」
これ以上問うても答えないだろうと優里は話題を変えた。
「今はなんと言ってここを離れるか頭を悩ませているところだ。下手に言えば皆ついて辞めそうでな」
優里の嘆息に明花はしばし思案する。
「それでしたら『個人的な都合で辞めざるを得なくなった』と言うので充分かと。他には何も言う必要はございません」
まるで占い師のような言葉に優里は小さく笑った。そんな何も明かさないような辞め方があるか。
「それじゃ誰も納得しないだろ」
「いいえ? 皆、勝手に納得するでしょう。例えば清牙様との婚姻の予定があるのではないか、とか」
どこをどうしたらそんな話が出るというのか。優里は怪訝そうに眉を顰めて首を傾げた。
その様子を見た明花もまた呆れた。
あの日、清牙はなりふり構わず優里の名を幾度も叫んだ。
前方に配置されたのは文官や軍部の高官だ。突如動いた優里のまわりに人だかりができた事で何かが起きた事は誰もが察した。同時に即刻下がるべき清牙が優里の元に動こうとしたことも、どれほど彼が優里の身を案じているかも、そこにいたすべての者が目の当たりにした。
清牙は屈強な女がいいと断言したばかりだった。
岳 優里という人間を知る者は皆、その一連の様子に納得したのだ。
確かに、これほどまでに相応しい女はいないだろうと。
「いやいや、無理があるだろう」
「大丈夫です。有耶無耶にしてしまえばいいんですよ。ここは誰もが本心を隠して生きる場所ですから」
明花は妖しく目を細め、そう太鼓判を押す。
首を傾げながらその助言に従った優里は、明花の言った通り深く詮索されることなく、あっさりと言っていいほど容易に軍を離れることが出来たのだった。
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