第5話 初めての手合わせ

 猪を仕留めた翌日は館の敷地内での通常訓練日だった。ひとしきり訓練を終えた団員たちはめいめい休んでいる。

 そこへ一人の初老に入ろうかという農夫が敷地の端で頭を下げ、真っ直ぐに優里に近付いた瞬間、団員たちの一部に走った緊張を優里が見逃すことはなかった。

 農夫の目当てが優里だと見取ると塊は立ちあがり、柳は「優里! ちょっと来い!」とさも関係のない風を装って彼女を呼びつける。

 二人の行動は実に自然なものに見えたが、優里にとっては何ともあからさまなものにしか見えなかった。優里が対応しようとするのを柳が制し、塊まで阻むように出張ってくるのだから。

 塊が対応している農夫は慌てたような、困惑したような表情で優里を気にしている。それを見た優里は柳に「後で」の意味を込めて右の掌を見せてから農夫の方へと踵を返した。

 言う事を聞かない優里の右ひじを柳は咄嗟につかんだ。ゆっくりと振り返り、自分の肘をつかむその手から柳の顔に視線を上げる。

「何を隠してる? 彼は誰だ? わたしを尋ねてきたんだろう?」

 優里の言葉が自然と強くなった。

「お前には関係のない話だ」

 塊と柳の両者があからさまに会わせまいとしている態度は露骨だ。優里は鼻で笑った。

「分かった。本人に聞く」

 毅然としたその態度に、一瞬ためらったのち柳は苦渋の判断を下した。

「中央で自害した訓練兵の祖父だ」

 優里の瞳がちらりと揺れた。

「名前は」

「……恵麻ケイマ

 優里はその名を把握していた。

 八年前、女性の兵役とその後の部隊の整理が不十分だった頃に起きた男性兵士による女性兵士への強姦事件があった。もちろん頻繁ではない。それでも何度も繰り返された事である。

 恵麻はその被害者の一人で施設内で自害している。恵麻の母親は出産時に亡くなり、男手一つで彼女を育てた父親はその衝撃に耐えられず体を壊し数年後後を追うように亡くなっていた。


「わたしが対応する」

 農夫に目を向ける優里のその横顔を見た柳は諦める。

 止められない。力づくで止めようとすれば骨の一本や二本は折られる。おそらくあばらを狙われるだろう。折られる部位まで予測した柳は早々に手を引いた。

 農夫に対応する塊の後ろに立った優里はしっかりとした声を上げる。

「わたしの客人です」

「十年も前の話だ。お前はこの国にもいなかっただろう」

 その頃、優里は他国へ留学していた。それを身上書で確認していた塊は舌打ちしたい衝動を堪えながら彼女に顔を寄せるとひそめた声で告げた。

「そのあと処理をして、新たに制度改正の草案を提出したのはわたしです」

 性犯罪者に対し除隊はもとより身体刑までの適用を国に申し出たのは優里である。

 あまりにも異質で、恐怖の存在として彼女が恐れられている理由の一つが、罪人に対し乱暴な取り調べと身体刑を自ら執り行った過去から来ている。

「団長、コイツはずっとこの手の案件に対応して来ています。任せたんでいいでしょう」

 当時を知る柳は優里についた。

 塊の言うように直接の関係はない。優里はその頃この国にさえいなかった。

 しかし再発を完全に抑制しようと尽力し、起きた過去の事件を再調査して徹底的に後始末をしたのは優里だ。

 そしてそれが「手負いの獣の皮を被った鬼悪魔」と呼ばれる事になった一つの要因でもある。

 だからこそ優里は強い意志を瞳に滲ませ、誰に向けてでもなく断言する。

「わたしの管轄です」

 そして農夫の前で姿勢を正す。

「お待たせしました。岳 優里といいます。こちらへ」

 優里は、ごく丁寧な態度で普段名乗る事のない家名を口にした。


 *


 優里は姿勢を正し、拳を片方の手のひらに当て肩の高さに上げる。そこに額を寄せ模範的な実にしっかりとした武人の礼を取った。

 客人が去った頃、手を下ろし閉じていた目を開く。

 自分が在籍していない頃の話ではあるが、だからこそやりきれず、煮え切れず、それを持って行く場がない。

 いつもそうだ。

 ただ静かに話を聞くしか出来ないのだ。罵倒されることもあるが暴力は受け入れない。それをすると優里は遺族を暴漢として捕らえなければいけなくなる。加害者と同じ、女を害する者にするのも憚られる。

 そして現在の軍の規律を説明する事が多い。

 人に弱みを見られる事を良しとしない職種にある優里はめったに本気のため息などつかない。けれどこういう時だけはそれをする。後ろ首に手を当て曲げた肘に隠れるようにして小さく小さく鼻で嘆息する。

 それから襟足を覆うように伸びた髪に指を突っ込んでガシガシと乱暴に頭を掻いた。


 やるせなさのにじむその姿を痛々しいと柳は感じたが、目が合った瞬間彼女の顔に浮かんだ薄ら笑いにいやな予感しかしなかった。

 本来であれば憂さ晴らしとばかりに街に「破落戸ごろつき狩り」に繰り出す優里だがここは己の管轄外の領地だ。よそ様の領地で問題を起こすのは憚られるとともに、塊率いる立派な部隊の功績もあって残念ながらこの近辺には破落戸がいないのである。

 いや、残念と言ってはいけないんだけど。優里は内心そう小さく笑って柳に声をかけた。

「柳隊長、休憩は済んだのか? 久し振りに一つ手合わせといかないか?」

「若手鍛えてやってくれよ」

 俺では役不足です! 顎で示された先で子墨は愕然とした。

 幸運な事に柳隊長に白羽の矢が立ったと思ったのに、上官はあっさりとこちらに振ってきたのだ。

 しかしここに配属されるだけあって子墨も非常に優秀かつ出来た人間である。恩師ともいえる優里の気持ちも多少なりとも理解は出来るし、役不足なのは重々承知ではあるが少しでもそれで彼女の気が晴れるのならと健気にも覚悟を決めかけたその時だった。


「相手しよう」

 脇からそう名乗りを上げたのは塊であった。

 意外な人物からの意外な発言に優里は目を見張り、周囲はどよめく。

 優里はこれまでも幾度となく訓練の態で繰り返し塊に手合わせを申し込んできた。しかし「若手の指導を頼みたい」等なんだかんだ言って一切応じなかったというのに。

 同情、かねぇ。

 優里は内心肩をすくめたが、相手になってくれるのはありがたい。


「おい! 団長と優里様が手合わせするってよ!」

 それは一気に広まり周囲には人だかりが出来た。

 一見の価値のある、そして参考になるであろう一戦である。気持ちは分かるが。

「困ったな。これじゃ警備が手薄になりそうだ」

 優里は周囲を見渡して深刻な表情を浮かべた。

「そうだね、清牙様のお部屋の下でやればいいよ。僕は部屋から清牙様と見物させてもらうから。これだけ団員が集まってるんだ、並大抵の人間には近づけないよ」

 人だかりに気付いて現れた領主代行の沙漠はそう穏やかに笑い、その実に気の利いた理解ある提案に団員たちは歓喜のうなりを上げた。

 その瞬間、彼等の熱狂とは裏腹に優里の思考ががらりと切り替わった。

 それは━━

 王弟 清牙のご尊顔を拝見する絶好の機会ではないか。


 清牙の私室は二階に位置する。

 その窓の真下は見張りがしやすく、窓からの侵入防止のために遮蔽物も木々もない、平坦な地面が広がっていた。

 そこに大柄の男女二人は向かい合って立つ。

 すでに両者重心を落とし、両腕を構えている二人に柳は開始の掛け声を発した。


「まさに組んず解れつ、だねぇ」

 三階の腰窓に両手を乗せ、軽く身を乗り出した沙漠は苦笑した。

 瞬発性に富んだ動きの際に出る短い気迫を伴う呼気。肉と肉がぶつかり、地を蹴る。

 その音がここまで聞こえるって、どんだけ本気でやってるんだろうねあの二人は。

 片方が相手を地に倒し、拘束しようとすればそれを身をよじって躱す。

 男女がときに寝っ転がって激しく絡み合っている、その様。

 そう言ってしまえば実に艶めかしく聞こえるが━━沙漠はちらりと団員たちに目をやり、その中でも若い子墨に目を留めた。

 固唾を飲みながら、興奮気味に目を輝かせてその様を食い入るように見つめている。そこにあるのは羨望とか尊敬。

 そりゃ参考になるだろうけれど。誰も彼も不健康過ぎやしないか。

 沙漠はため息をつきながら汗だくで衣服も汚れて乱れた二人に視線を戻す。

 まぁでかい図体したガタイのいい人間二人が、色気もへったくれもなく殴る蹴るしながら取っ組み合っているのだから仕方ないか。

 お互い荒い呼吸に肩を上下させて久しくなった頃、もうそろそろ終わりにしないかと、塊が拳を引いた瞬間を優里は好機と取った。

 優里は終了の提案に同意するように体から力を抜いて接近し、塊の右襟を右手で掴むと膝の後ろに己の足をかける。ごくわずかにバランスが崩れるや、右上腕で塊の上半身を渾身の力で、それこそ全体重をかけるようにして押し倒したのだった。

 塊の厚くたくましい胸の上に跨り、襟をつかんだまま右上腕で首元を圧迫しながら顔を寄せる。


「女だからって情けは無用ですよ」

 荒い呼吸で汗をしたたり落としながら優里は不敵な笑みを浮かべた。

 汗と、それ以外の人間特有の体臭。相手の熱まで感じるのはごく至近距離だからだ。

 そんなものは訓練中はいつもの事で、慣れたもののはずだった。

 それなのに、昨日渡した石鹸の香りが入り混じったそれはなぜか甘く感じられ、腹に乗る彼女の太ももは硬くたくましいはずなのになぜか柔らかくも塊には感じられた。その瞬間、塊の体は動いていた。

 それは塊自身、意識を伴わない反射的な行為であり、だからこそ優里は反応出来なかった。


 そもそも訓練の礼儀上、組み伏せて上位を取ればそれで勝負はついているのだ。

 右膝を立てると鍛えぬいた筋肉を総動員して、塊は優里と体位を入れ替える。完全に頭に血が上った状態だった。

 周囲の団員達は団長の高い格闘技術に無責任な歓喜の声援で沸く。対して優里に馬乗りになり、なおかつ反射的に彼女の腕を膝で抑える所までやってのけた当の塊は優位に立った状況に反して愕然とした。まるで冷水を浴びせられたような心境だった。

 組み伏せた直後優里の顔に浮かんだのはあせりでも驚きでもない。

 拘束を解かんとする強い抵抗とともに、揺るぎない闘志がその目に一気に燃え上がり━━刹那、なぜかそれは一瞬で掻き消された。

 次いでそこに現れたのは揶揄うような、笑み。

「あの体勢から逆転されるとは。さすがです」

 謙遜するがそれは違う。

 もとはと言えば終了を持ちかけた塊に優里が卑怯な手段に出た事に端を発したとはいえ、優里の勝利で勝負はついていたところに塊が非礼を働いたのだ。不満を漏らす権利はあっても讃える義理など優里には無い。

「すまない。大丈夫か」

 塊は弾かれたように立ちあがると優里に片手を差し出した。

「凝りませんね」

 苦笑した優里はその手を取ることなく自力で立ちあがった。

「でも懲りずにまた相手してください。団長との訓練はとても勉強になります」

 本音はとても楽しい、だったが教官たる肩書を持つ彼女は正直には言わなかった。

 そして、鬱屈は完全に晴れていた。

 この場所を提案してくれた沙漠を見上げるまでは。


 結局清牙は一切顔を見せる事はなかった。あれだけの騒ぎだったというにもかかわらず。


 本当に、あの部屋に王弟殿下はいるのだろうか。

 組手訓練前に抱えていた鬱屈は去ったものの、強く不快な疑念が優里の中に生まれた。


 こちらを見上げる優里に笑顔で軽く手を振った沙漠は次に塊に目をやる。いつにも増して難しい表情だ。

 うーん、試合に勝って勝負に負けるってのはこういうのを言うのかなぁ。

 いや理性に負けたって言った方が正しいか。

 沙漠は口元が緩まないよう必死で堪え涼しい顔を維持したのだった。

 

 

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