第4話 猪の罠と石鹸

 この近辺でイノシシによる農作物への被害が深刻化しているという報告は優里も聞き及んでいた。

 罠をしかけていた所、大きな猪がかかったとの連絡が入り、見物半分、応援半分といった態で畑と山を区切る道に馬で駆け付ければすでに多くの村人で人垣が出来ていた。

 聞いた者の脳を突くような、獣のけたたましい鳴き声が継続的に里に響く。


「ああ、見てくださいよ」

 団員達の姿に、里の農夫らが自慢気に笑って道を開けた。

 これから仕留めて拘束する所だったらしく、右足が罠にかかっただけの状態の猪はひどく興奮していた。罠を外そうとがむしゃらに暴れる姿に、槍状の専用道具を持った村人は満足に近付けないでいる。

 耳をつんざくような鋭い嘶きとその動きに、優里はすぐさま地面に片手をついて身を下げた。右足の状態を確認すると同時に叫ぶ。

「足を切って逃げるぞ! 全員離れろ!!」

 そうやって猪が逃げた事例を山岳地出身の優里は知っていた。

 このまま足首を引きちぎって走りだせば、人垣に突っ込む。

 動揺と、悲鳴交じりのざわめきが起こった。そう、そこにいたのは男達だけではなく高い所から見ようと山に続く斜面には女子供の姿も見えた。

 始末に手間取っている間に大物がかかったという知らせを聞きつけた村人が集まってしまったこの状況は最悪だった。

 団員が迅速に人々を下がらせるなか、優里は鋭く周囲を確認し近くにいた男の手から斧を奪う。

「そっちで引きつけろ!」

 屠殺用の槍を持った猟師姿の男達に叫び、優里は極力気配を殺した状態で素早く猪の脇まで移動すると、両手で斧を大きく振りかぶる。

 腰を落とすようにして全力でその後ろ首に斧を叩きこんだ瞬間、舌打ちした。

 浅い。

 それに━━ズレた。

 ひときわ大きい嘶きのなか瞬時に判断し、再度斧を振り上げる。黒い血液が噴き出し、優里はそれをまともに浴びるが微塵も怯む事なく今度こそ後ろ首の急所を狙って斧を振り降ろしたのだった。

 獣の絶命を確認し、息をつく。

 顔に滴る生ぬるいものを感じ、汗の感覚で汚れの少ない左腕の肘付近でぬぐえば松葉色の隊服は毒々しい茶褐色に染まった。

 自分の姿を見降ろすと今さらのように何とも言えない獣臭が鼻をつく。

 その苛烈なまでの行いと壮絶な姿は猪が倒れた時に沸き起こった感嘆と興奮に水を差すほどで、里の面々はあからさまに戸惑っていた。

「斧は弁償する」

 獣脂と刃こぼれでもう使い物にならないだろう。こういった場合は経費で賄う事ができる。当然の対応として声をかけたが「あ、はい。いえっそんなっ」と持ち主には怯えたように遠慮された。

 ……わたし、先に帰っていいかな。

 決して深刻に考えたりはしなかったが、それでも何とも言えない遠慮がちな空気の中、優里はどうしたものかと思う。

 その実に気まずい空気を明るい声が引き裂いた。

「さすが優里教官! あいかわらず無茶苦茶ですね!」

 長いスカートをものともせず、輝かんばかりの笑顔で手ぬぐいを持って駆け付けたのは教え子の紫梓シズだ。

 地方で特に優秀な新兵は中央での訓練が課せられる。高額の報酬が支給され、さらに成績優秀者は希望すれば訓練満了後、中央での勤務が認められる。女性兵は優秀な成績を残そうとも紫梓のように生まれた土地に帰る者が多い。

 よくもあんなひらひらした服で走れるもんだ。教え子の成長に優里は感心するが、本人が聞けば「いやこれは成長とかは関係ないですよ」と大笑いすることだろう。訓練を終える事には女性兵は皆優里に心酔し、中央を離れる事には紫梓のように気安く声をかけて来る者さえ出る。

「早く流さないといつまでも匂いつきますよ。お手伝いしますから」

「とりあえず川で流した方がいいんじゃないですか?」

 子墨が意見を述べた。

 元教官に「川でいいだろう」というこの男もたいがいではあるが、彼の言う事は正論であり、優里も気にする性質ではない。素直に川に向かった。

 川に入るには少しばかり肌寒い季節であるが、血液は湯で流すと凝固して尚更厄介な事になる。

「泳げるくらいなら入っちまうんだが」

 この辺りの地形をすでに把握している優里は膝にも満たない川の水深を思い、そう言って嘆息したのだった。


「ぅえっっぐしゅい・う゛ア゛アァァァー!」

 夕刻敷地内にひびいたそれは条件だけで言えば「良家の姫君」と言っても過言ではない女性のくしゃみとは到底思えない、獣の咆哮と言われればそうかもしれないと思ってしまうような実にひどいものだった。

 子墨などは「さすが猛狒ゴリラ」と思ったほどだ。

 血のついた衣は水洗いし、紫梓がその辺りから借りて来た桶で頭も流したが髪についた悪臭は未だにまとわりついてはなれない気がする。横髪をつまみ上げてスンスンと鼻を鳴らして匂いを確認するが、もう鼻が馬鹿になってしまっている。そもそも秋口に冷水で洗髪し、ろくに乾かさないまま村から戻ったのだ。鼻水のせいでとっくに鼻は利かない。

 面白そうに寄ってきた柳が生乾きの優里の頭をつかんで自分の鼻に引き寄せた直後、慌てて遠ざけた。

「ばっか、お前! 人のを首もぐ気か!」

 優里の本気の抗議も意に介さず、柳はげたげたと笑った。

「お前、すごいって。これはすごい」

 やはり匂いが残っているのか。優里はげんなりとした心境で眉を顰めた。柳はその優里の頭を掴み、長毛種の犬でも愛でるように無遠慮に頭を引っ掻き回して確認する。

「血は残ってないんだがなぁ」

「しっかり洗ってもらったもんでな。もう一回洗ってみるか」 

 紫梓がそれは献身的に頭を流し、服も洗ってくれたのだ。ズズッと鼻を鳴らし、優里はその足で洗濯場に向かった。


「優里、ご苦労だった。湯を使え。準備してある。これは清牙様からのお気遣いだ」

 出迎えるように現れた塊からそう渡されたのは、子供の拳ほどの大きさの美しい包装の香水石鹸だった。

「あ、いえさすがにそんな高いのは」

 そこにしるされた紋は中央では富裕層に人気の長時間香りが持続すると評判の物で、しかも王弟からとなれば皇族御用達の最高級品である。優里はおおいに戸惑った。

「こちらに来られてからは使わなくなったから古いものだそうだ」

「あー……ではお言葉に甘えさせていただきます」

 優里はこわごわと両手で拝するようにそれを受け取った。

 湯室を使うのは三日に一度順番が回って来る。湯室を使う時間にはまだ早く、何より今日は優里の番ではなかったが塊の計らいで他の男達が使う前に使わせてもらえることになった。規則破りは心苦しいが、この状態では正直ありがたく、素直に使わせてもらう事にする。


 さすが皇族の使う石鹸はすごいな。

 透かし模様の入った包装紙を開ければそこには表面に見事な大輪の菊の意匠が彫られた固形石鹸が現れる。

 確かに乾燥が進んで表は硬化しており、表面を削らないと使えそうもない。匂いも薄くなっているが削れば内部はまた香り立つはずだ。

 繊細な細工を削ぎ落すのは何とも心苦しくはあるが、捨てるのももったいないので削ぎ落した部分はとっておいた。あとで雑務の老女達にやればきっと器用に匂い袋を作るだろう。

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