BITCH
目の前には、山盛りになったティッシュ。
「前から思ってたんだけど俺には無理だとかさあああああ昨日会ってた時は好きって言ってたのに意味分かんないいいいい」
ラブホテル特有の大きいベッドの中央に座って泣き喚くあたしと。
「うん」
ベッドの端に腰かけて、缶ビール片手にテレビを見ながら生返事をするトーリ。
ラブホテルの一室である、この部屋に来て三十分。
「トーリ、聞いてんの!?」
「聞いてる」
「テレビ見てんじゃん!」
「見ながら聞いてる」
あたしとトーリの感情の温度差は、ずっと変わらない。
「ちゃんと聞いて!」
「聞いてるって。昨日会った時は好きって言ってたくせに、今日会ったら『前から無理だと思ってた』って言われたんだろ?」
「そうだけど、そうじゃない! あたしはちゃんと聞いて欲しいの!」
「だから聞いてるって」
「こっち見て!」
「どっち見てても聞いてるから大丈夫」
「ちゃんと! あたしを見て! 聞いて欲しいの!」
「めんど――」
「じゃないと寂しい!」
大きな声で訴えると、トーリは一旦大きめの溜息を吐き、体を斜めにして、こっちに顔を向けた。
鼻水垂れ流して泣いてるあたしを見て、変化するトーリの表情は分かりやすく呆れてる。
でもそんなのはどうでもいい。
トーリが何を思ってようが関係ない。
あたしが寂しくなかったら他は何だっていい。
「トーリ、あたしの名前知ってるよね!?」
「……なづな」
「漢字は!?」
「は?」
「あたしの名前の漢字! あたしはトーリの知ってるよ! 春夏秋冬の『冬』に理科の『理』で『
「……ああ」
「じゃあ、あたしの名前の漢字は!? 何と何!?」
「……『夏』と『
「でしょ!? 知ってるよね!? 知ってて当然だよね!」
「当然っつーか――」
「その当然を、あの男は知らなかったんだけど!」
「――あの男?」
「彼氏! ――じゃなくてもう元カレだね! 前から無理だと思ってたとか言うから、マジでムカついて、最後の最後に『あたしの名前の漢字知ってる?』って聞いたんだよ! 前々から知らないんじゃないかって思ってたんだよね! スマホにメッセージ送ってくる時とかあたしの名前書くの毎回ひらがなだったし! で、聞いたら黙ってんの! 答えないの! 明らかに知らないって顔してやがんの! ヤバくない!? ねえ、ヤバくない!? 三ヵ月も付き合って名前の漢字知らないとかマジヤバくない!? トーリみたいな元カレでもあたしの名前の漢字知ってんのに!」
「言い方」
「酷いでしょ!? 酷いよね!」
「お前がする俺への扱いの方が酷い」
「普通三ヵ月も付き合ったら名前の漢字分かるでしょ! 付き合い始めとかに知ろうとしたりするでしょ! 知ろうとしないくらいあたしに興味なかったって事じゃん! トーリみたいな元カレでも知ってる事を!」
「俺を酷い男の枠組みに入れんな。つーか、俺の場合はお前が言ったから知ってるだけだ」
「言った? 何を?」
「名前の漢字」
「……そうだっけ?」
「ああ」
「覚えてない」
「しつこく言ってきたくせにか。――てか、名前の漢字を知らなかったから、そんなにもバカみたいに泣いてんのか?」
「違う! それもあるけど、別れたから泣いてんじゃん!」
「泣くほどの事かよ」
「あたしはトーリとは違うの!」
「大した違いはないだろ。お前、その男と付き合ってる時も俺と会ってヤってたし、俺以外の元カレとも会ってヤってただろ」
「だから何!?」
「その程度の男だったんだろ? 泣くほどの事じゃないだろ」
「誰と会って誰とヤってたって別れは寂しいでしょ!」
「その感覚、俺にはねえわ」
「トーリは冷酷人間だからだよ! 感覚がおかしいの!」
「この場合に於いては、お前の方が感覚おかしいと思うけど」
「おかしくない! 寂しいもん! 寂しいのは嫌なの!」
「ああ、はいはい」
「あと悔しい! 名前の漢字を知ろうともしないくらい興味ないとか!」
「そっちが泣いてる理由の大半だろうなあ」
「違う! 寂しいの! 寂しいがメイン!」
「普通そういう時って、好きって気持ちがメインで泣くんじゃないのか」
「は?」
「好きなのに振られて悲しいとか」
「好きで泣くのも寂しいで泣くのも一緒でしょ!?」
「一緒……なのか?」
「知らないし!」
「まあ俺も、そういう感覚よく分かんねえけど」
「トーリは冷酷無情な人間だからね!」
「言い方」
脱力感に襲われたような声を出したトーリは、徐にあたしから自分の腕時計に目を向けた。
そして、もう一度あたしに目を向けると、「で?」と聞いてくる。
あたしが彼氏とラブラブだろうが、あたしが彼氏と別れたばかりだろうが、全く変わらない、いつもの感じ。
まあ、あたしがどういう状況であろうと、元カレでしかないトーリに、関係ないのは当たり前だけど。
「で?って何」
問いの意味を分かっていながら、聞き返してやった。
もちろんトーリは、あたしが分かって聞いてる事を理解してる。
だからトーリは少し眉を顰めて、やれやれって感じの小さな溜息を吐いた。
「社会人の俺は、大学生のお前と違って、明日も朝から仕事なの。まだバカみたいに泣きたいならひとりで泣いてくれ。俺はそろそろ眠い」
「バカみたいって言い方酷くない!?」
「ヤんの? ヤらねえの?」
「ヤる」
「なら、さっさと風呂入って来て」
「トーリは?」
「ん?」
「お風呂」
「俺は家で入った。お前から電話あった時、もう寝ようと思ってベッドの中いたんだぞ」
「そっか。じゃあ、入ってくる」
「早くしろよ」
「あっ、トーリ」
「うん?」
「今日、泊まってよ? ヤって帰んないでよ?」
「帰った事ないだろ」
「ある! 彼女から電話かかってきた時!」
「それは仕方ない。ノーカンだ」
「今日はスマホの電源切っといて!」
「今は彼女いないからそんな心配ない」
「え? いつ別れたの?」
「いつだっけなあ。一ヵ月くらい前……かな?」
「ええ!? この間会った時、そんな事ひと言も言ってなかったじゃん! 何で教えてくれなかったの!?」
「教える意味ないだろ。てか、そんな事どうでもいいから早く風呂」
「教える意味ないって――」
「ないだろ」
「――うん。確かにないね」
彼女がいてもいなくても何にも変わらないからどうでもいい事だった――と、ケラケラ笑って言ったあたしに、トーリはもう一度「風呂」とだけ言って、テレビに視線を移した。
そんなトーリに「ティッシュ捨てといて」と告げて、ベッドから飛び降りて浴室に向かうあたしの目からは、もう涙が出てなかった。
あれだけ大泣きしてたのに、いつの間にか泣き止んでたのは、トーリのいつもと変わらない態度のお陰だと分かってる。
下手に同情されたり慰められたりしてたら、もっとずっと泣いてたと思う。
トーリの態度が計算されたものなのかは分からないけど、お陰で気持ちが少し楽になった事は確か。
でも何となく癪に障るから、トーリのお陰っていうのは言わないでおく。
言わなくても、気付いてるんだろうけど。
それはまあ、付き合いが長いんだから仕方ない。
トーリはあたしの「ティッシュ捨てといて」って言葉を無視したけど、あたしがお風呂から出るとベッドの上に山盛りになってたティッシュはなくなってた。
愛想なしだし、彼氏と別れたって泣いても慰めてくれないけど、トーリは基本的には優しい。
それに、セックスも上手い。
少なくとも、歴代の彼氏の中では一番上手いから、トーリとヤるのが一番好き。
ベッドの端に座って、二本目の缶ビールを飲みながらテレビを見てたトーリは、浴室から出てきたあたしに気付くと、徐に立ち上がった。
そうして、ビールを飲み干して、ゴミ箱に缶を捨てて、ベッドに上がって座ると「おいで」と言うように、手を伸ばしてくる。
その、手を伸ばしてくる仕草が好き。
満たされるような感覚になって、自然とニヤけてしまう。
だから「うひひ」って笑ったら、間髪入れずに「キモい」って言われた。
いつもの事だから気にしないけど。
いつだって、口では意地悪な事を言っても、目許が笑ってるから全然気にならないんだけど。
「早く来い」
ベッドの近くで突っ立ってたら、伸ばしてる手の指を招くように動かされた。
近付くと、腕を掴んで引き寄せられる。
トーリの腕に支えられて、体がゆっくりベッドに倒れ込む。
仰向けになったあたしに、覆い被さってくるトーリの程よい重み。
――好き。
触れ合う、お互いの肌の感触とか。
重ね合った唇から、伝わってくる温もりとか。
あたしの口の中に入ってきた、トーリの舌の優しい動きとか。
そういうの全部が好き。
触れられると、寂しさが少し減る。
あたしの中にぽっかりと開いてる穴みたいなものが、ほんの少し埋まる気がする。
誰とヤってもそう感じるけど、やっぱりトーリとヤってる時が、一番感じる。
それは、付き合いの長さが
ただその時間には、限りがあるのだけども。
トーリに抱かれながら、明日は誰とセックスしようかな――なんて、頭の隅で考えてた。
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