羽ばたく翼

蔵樹紗和

羽ばたく翼

 これまでの人生で、こんなに辛いことがあっただろうか。これほどまでに立ち直れないことはあっただろうか。


身近な人間の死。そんなもの、想像もしていなかった。


「元気出せよ。親父さんのことは気の毒だったけどさ。でも、お前は生きてかなくちゃならないだろ? 立ち直れないとやっていけないぜ?」


そんなことは分かってる。あんたに言われなくたってちゃんとやれる。


そう言いたいのに、あまりのショックで何もできない。


「夢があるんだろ? 小さいときからずっと親父さんに言っていたじゃないか。

せっかく応援してくれていたあの夢を、立ち直れないからと言って諦めるのか?」

「うるさい!!」


立ち直れない私を勇気づけようと差し出されたその手を振り払い、私は一目散に駆け出す。


あの言葉は彼の優しさから出た言葉だと言うことは重々承知していた。


母親もいない、父も死んだ。そんな私に生きる勇気を与えようとしてくれていたことは痛いほどに伝わっていた。


だけど、ついこの間まで仲良く笑い合っていた大事な大事な家族が、一瞬にして崩れ去って行ってしまったようで私はむなしかった。


——全ては、あの瞬間から。あの一瞬の出来事が、私を変えてしまったのだろう。


こんなに嫌な性格の女子に、なってしまったのだろう。


そんな想いが、私の頭の中を巡って止まないのだ。




***



「……え?」


病室のベッドに横たわる父からの言葉に、思わず素っ頓狂な声をあげてしまった。そんな私に反して、父はいたって真面目である。


「もし私に何かあったら、私の机の引き出しを見ろと言ったんだ。関係書類は、全てそこにまとまっている」

「なに……言ってるの?」


父が言い終わると同時に私の口から声が発せられる。父は、いったい何を考えているのだろう。


「聞いての通りだ。私はもう永くない。だから、これからのことをお前に任せると言っているんだ」

「それって、私に会社を任せるってこと?」


父は自分の経営している会社を大事にしていた。


だから、「これからのことを任せる」っていうのであれば、会社経営も任せるという意味だろうと想像してしまう。


しかし、父から出たのは肯定の言葉ではない。


「そ、そうは言っていないだろう」

「そう言ってるよ!」


ここが病院だというのも忘れて声を荒げる私。小さい頃からの私の「夢」を応援してくれていたのは父ではないか。


母に微妙な顔をされても、ずっと叶うと言い続けてくれていたのは父ではないか。


母の友達のコンサートに行って、初めて生の歌を聴いたときにできた、歌手になるという夢。


それを捨てて、私に違う人生を歩めというのは酷ではないか。


そんな思いが一瞬にして頭の中をよぎっていく。


その瞬間、こちらを心配している様子の父を、睨まずにはいられなかった。


「りか? 大丈夫か?」

「……!」


我慢ならずに無言で帰る。


まさか、これが父と会話をする最期の時になるとは知らずに——。



***



 夢を追う女の子から父の言葉を否定する女の子になってしまった日。


あの日の記憶を鮮明に思い出したことで、私が実行していないことがあることに気づいた。


「机の……引き出し……」


父が私に伝えた言葉。「何かあったら机の引き出しを開けろ」。


あのときは父が死ぬなんて思っていなかったから、さっきまですっかり忘れていた。


——せめて、遺言だけでも実行したい。


私は、うずくまっていた体を起こして立ち上がる。それと同時に父の書斎に意識を向けた。


全速力で走っているはずなのに、いつもより遠く感じるこの廊下。


急いでも机の中に入っているものは変わらないけれど、それでも早く着け、早く着け、という感情が先行していた。


「はぁ、はぁ……」


息を切らしながら、私はまだ父の面影が残る机に触れると、躊躇うことなく引き出しを開ける。


するとそこには細長い封筒に入った手紙と、いくつかの書類が入っていた。


引き出しにある読み物の中、特に封筒から何か温かい空気が漏れているように感じた私は真っ先に封筒を手に取る。


『りかへ』と父らしい力強い字で、だけども昔のような大胆さは無くなってしまった字で書いてある封筒。


ハサミを取り出す時間も惜しみ、手で封筒を開ける。中の手紙には、封筒に書いてあった字と同じ字で文章が綴られていた。



『りかへ


りかがこの手紙を読んでいるということは、私に何かあったのだろう。


小さい頃から歌手になると言っていたりかの夢を、最後まで応援できず、本当に申し訳ない。


会社のことは気にするな。りかが継ぎたかったら継いでもいいし、継ぎたくなかったら継がなくていい。


そのあたりは副社長の今野こんのに任せてある。何かあったら今野こんのに伝えてくれ。


りかの夢が叶って、素敵な人生を送れることを願っているよ。


父より』



——気づいたら、手紙は水で濡れてくしゃくしゃになっていた。


父は最期まで不器用だった。だけど、それ以上に暖かさを持っていた。


私は、夢を叶えよう。どんなに辛くても、どんなに苦しくても、絶対にあきらめない。


私は、夢を追う翼なのだ。


私のこの翼は、まだ羽ばたきだしたばかりである。



                                おしまい

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羽ばたく翼 蔵樹紗和 @kuraki_sawa

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