第47話

「甦った……。ユリアン、どうか、花の薬を飲んで……!」

 レオニートと共に、ユリアンの口許に花弁を寄せる。

 蕾のような花びらを通して、一滴の透明な雫がユリアンの唇を伝う。

 彼はこくりと喉を鳴らした。

 すると氷の花は役目を終えたかのように萎んだ。急速に花弁は縮んでいき、数粒の種が零れる。光は次第に薄くなり、やがて消滅する。

 室内には静寂が満ちた。皆は起こった奇蹟に呆然とし、固唾を呑んでユリアンの容態を見守る。

 すう、とユリアンの薄い瞼が開いた。

 菫色の瞳は虚空を見つめると、傍らのレオニートと結羽にむけられる。

「あれ……? 兄上、結羽……どうしたの?」

「ユリアン、治ったのだな。どうだ、気分は? おまえは白熱病に冒されて、命を落としかけたのだぞ。氷の花に含まれていた薬を飲んで助かったのだ」

 身を起こしたユリアンは夢から醒めたように、すっきりとした顔をしていた。

 医師が熱を測ると、下がっていると報告する。身体を覆っていた発疹も引いていた。皆はユリアンの回復に喜びを湧かせた。

「知ってるよ。ぼく、夢で見たもの。結羽が山の頂上に登って、氷の花を取ってくるんだ。でもヴァレンチンに渡して、雪崩に巻き込まれちゃうんだよ。白熊になった兄上が助けたんだよね」

 詳細な事実を晒されて、ヴァレンチンは気まずそうに顔を逸らした。

 不思議なことだが、氷の花の薬を摂取したことにより、ユリアンは花の記憶を視ることができたようだ。

「ありがとう、結羽。二回の恩人だね」  

「治って良かった、ユリアン……。でも、僕の力だけじゃないんです。レオニートもヴァレンチンも、ユリアンのために吹雪の中、霊峰に登りました。それにここにいる皆も、ユリアンをとても心配していたんです。僕は、お手伝いをしただけなんです」

 ユリアンの手を握り、快気したことに心から感謝を捧げる。

 氷の花は、願いを聞き届けてくれたのだ。

 皆が回復を喜び合うなか、アナスタシヤは静かに身を翻す。ひとり出て行こうとするアナスタシヤを、ヴァレンチンが見咎めた。

「どこへ行く、アナスタシヤ」

「氷の花はわたくしに妃の資格がないことを証明いたしました。ルスラーン王国へ帰りましょう、お兄様。到着する使者も、帰還せよというお父さまの報せをもたらすでしょう」

「なにを言う! アスカロノヴァ皇国の妃はおまえなのだ。氷の花など気にすることはない。おまえの願いは俺が叶えてやる!」

 アナスタシヤはヴァレンチンに向き直り、水色の瞳をまっすぐに兄に注いだ。

 事態を見守る人々の前で、アナスタシヤは静かに、明瞭に発する。

「……今までお伝えすることができませんでしたが、実は、わたくしは、レオニート様を愛していないのです。わたくしが結ばれたいと願っているのは、別の方なのです」

 虚を突かれたヴァレンチンの顔に驚愕が広がる。息を呑んだ彼は、アナスタシヤに詰め寄った。

「なんだと!? 俺はおまえがレオニートを慕っていると思ったから、父に婚姻を進言したのに……誰だ、アナスタシヤが愛する者というのは! 誰なんだ!」

「その方は、幼い頃よりわたくしのことだけを思いやってくださり、いつも傍にいてくれました。今、わたくしの、目の前におります」

 唖然としたヴァレンチンは言葉をなくしていた。

 レオニートは立ち尽くす人々にむけて、朗々と述べる。 

「今こそ会談の内容を皆に明かそう。会談にてアナスタシヤと私は、互いに愛する人がいることを確かめ合ったのだ。そして愛する人と幸せになる道を選んだ。婚姻を勧めてくれたルスラーン国王にそのことを報告すると共に、兄と妹の婚姻も認めてもらえるよう、私は信書に書き添えた」

 室内に驚きの波が広がる。結婚を信じていた大臣のひとりは、レオニートの裾に縋るように跪いた。

「それでは陛下、会談が終了した時点で婚姻は破綻していたということですか!?」

「そういうことだ。皆を期待させたまま待たせてしまってすまなかった。アナスタシヤは帰国してから想いを打ち明けたいと希望していたので、その気持ちを尊重したゆえ、真実を公開するには時間が必要だったのだ」

 アナスタシヤは、兄のヴェレンチンを一途に愛していたのだ。

 皆の前で告白することになってしまったが、彼女は爽やかな笑みを浮かべていた。結羽は会談の後、ふたりが笑顔なのは婚姻にむけて順調だからだと思い込んでいたのだが、あれは互いの想い人を打ち明けたので、穏便に婚姻を解消するという未来へむかっていける笑みだったのだ。

 確かに会談後すぐに事実を晒すわけにもいかなかっただろう。破談となれば明確な理由が必要だ。互いに愛する人がいると聞けば周囲の衝撃は必至である。アナスタシヤが秘かに兄を慕う気持ちを尊重し、ルスラーン国王に事情を説明することを誰よりも優先したというレオニートの気遣いも頷ける。

 レオニートはアナスタシヤと結婚するものだとばかり思っていた結羽は初めてそれらの事実を知らされ、周囲の人々と同様に呆気に取られる。

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