第44話
伝説の妃は、アナスタシヤであるべきだ。
異世界ではなく異国からやってきた姫だが、解釈の違いは些細なものだろう。
そしてユリアンの病を治癒したアナスタシヤは、初代皇帝も認める伝説の妃となって、国民に末永く愛される。レオニートもきっと、氷の花をもたらしてユリアンを救ったアナスタシヤを大切にするだろう。
僕は、死んでもいい。
ただ、愛する人を守りたい。
ユリアンの笑顔を、レオニートの未来を守る。それだけだ。
剣先を突き出しながら近づいたヴァレンチンは、結羽の手から氷の花を奪い取る。
そのとき、山が唸りを上げた。
地響きが轟き、大地は揺れる。
「な、なんだ……!?」
身を翻したヴァレンチンは氷の花を手にして頂を下りていった。結羽も急いで山を下りようと、疲労に軋んだ足を運ぶ。
村人の言葉が脳裏を過ぎる。
氷の花を奪おうとする者に、山の神の制裁が下る……。
山の神が怒っているのだ。
伝説の氷の花を、結羽が霊峰から奪ってしまったから。
轟音は次第に近づいてくる。
はっとして仰いだとき、間近に迫る雪の荒波が見えた。
――雪崩だ。
身を隠すような場所は見当たらない。
もう……だめだ。
咄嗟に下腹を覆う。
どうか、この子だけは。
雪崩に呑み込まれる寸前、結羽の視界は純白に覆われる。
それは懐かしい、温かなもの。
結羽の意識はそこで、ふつりと途切れた。
「う……ん」
重い瞼を開ければ、ふわふわとした白いものが目に飛び込む。身体は逞しくて温かいものに抱き竦められていることに気づく。
「あれ……? 僕、雪崩に巻き込まれたはずじゃ……」
「目が覚めたか、結羽」
低い声音が響き、ふと顔を巡らせる。眼前には黒い鼻先が突きつけられていた。
その鼻先で、つんと結羽の小さな鼻を突かれる。べろりと紅い舌が冷たい頬を舐め上げた。「ひゃあ!? あっ……レオニート!」
レオニートは人型のときと同じ紺碧の双眸をしていたが、白くて丸い耳と黒い鼻先、純白の獣毛に覆われた姿はまさに白熊だ。
辺りを見回すと、岩の壁に囲まれた薄暗い洞穴にいることに気づいた。洞穴の入口には吹き込んだ雪が薄らと積もっており、ぽっかりと空いた外の景色には青空が見える。ここは霊峰の中腹にある洞穴らしい。結羽を保護したレオニートが、ここまで運んでくれたのだ。
「心配したぞ。間一髪だったな。村人の間で噂されている山の神の怒りとは、雪崩のことだったのだ。氷の花を引き抜いたせいか、偶然なのかは不明だが、あのままでは命を落とすところだった」
雪崩に呑み込まれる寸前に目にした純白は襲い来る雪ではなく、白熊に変化したレオニートの獣毛だった。彼が、結羽の命を救ってくれたのだ。
結羽は氷の花を持っていない。無事にヴェレンチンが城へ届けてくれたことだろう。
後は、結羽がどこか他の国へ姿を消せば済むことだった。
それなのになぜ、レオニートは霊峰の頂まで結羽を追いかけてきてくれて、しかも助けてくれたのだろう。彼がそんなことをする必要などないというのに。
「レオニート……どうして?」
白熊の長い首に腕を回す。とても大きな身体なのに、つぶらな瞳や黒い鼻は可愛らしい。ふわふわの毛並みは極上の手触りだ。
レオニートは微笑んだ……気がした。白熊の鋭い牙が口許から覗く。
「私は、結羽を愛している。その想いに抗うことなど、できはしない。たとえ地の果てだろうが、霊峰の頂だろうが、君を追いかけて、守らずにはいられないのだ」
ほろりと、強張っていた心の欠片が零れ落ちた。
固い雪が春の陽光に溶け出すように、結羽の唇から素直な想いが滲み出す。
「レオニート……僕は、誤解していました。いいえ、知ろうとしませんでした。あなたがこんなにも深く、僕を想っていてくれたことに」
自分の想いや状況にばかり考えを巡らせていた。レオニートがなにを望んでいるかなんて、皇国やアナスタシヤとの婚姻しかないと決めつけていた。
レオニートは命を懸けるほどに、結羽を愛していてくれたのだ。
結羽はひどい言葉で彼を傷つけたというのに。
獣人を侮辱して、別荘の一夜を否定したというのに。
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