第43話
「まれに霊峰から轟音が聞こえるんだ。氷の花を奪おうとする者に、山の神が制裁を下しているんだよ。悪いことは言わない、家に帰りなさい」
結羽は微笑んだ。心配してくれる人がいるのは、本当にありがたいことだ。
「ありがとう、おじさん。でも僕は、行かなくてはならないんです」
固い決意を秘めた結羽を説得することを諦めた村人は、頂上へ辿り着く道筋を教えてくれた。そこは雪深く、険しい道だが、霊峰を登るにはその道しかない。
馬車が乗り入れられる地点まで乗せてもらい、結羽はそこで下車した。村人に深く礼を言って、馬車が戻っていくのを見送る。
見上げた霊峰の頂は遙か遠く、靄に霞んで見えない。吹きつける風は身を切るほどに冷たかった。フードを目深に被った結羽は一歩一歩、雪を踏みしめて霊峰を登り始めた。
ずぶり、と脚が深みにはまる。誰にも踏み固められていない雪道は道ではない。腰の高さまで積もった雪を必死で掻き分けながら進んでいくと、次第に息が上がる。
強い風が吹きつけて、凍った頬を雪が叩きつけた。手指はもう感覚がない。防寒具に覆われていない顔の部分は、鋭い痛みを覚えた。
強風に枯木が大きく揺れている。どさり、と結羽の頭に雪の固まりが降ってきた。
このような環境で花が咲いているわけがないと、誰しも思わずにはいられない。
「でも、僕は信じる……。きっと、氷の花はある」
結羽は霊峰を登り続けた。
どんなに猛烈な吹雪に見舞われても、雪の壁が立ち塞がっていても、レオニートの言葉を信じて、ひたすら前へ突き進んだ。
やがて山の頂が目視できる頃、風は凪いだ。あれほど吹き荒れていた吹雪は収束する。
雲の中を進み、突き抜けると、そこに広がるのは眩い蒼穹。
「すごい……。雲が下にある」
フードを外せば、ぱらぱらと雪片が散った。
見上げた頂には、ひとつの樹氷がそびえている。やっと、辿り着いた。あそこが頂上なのだ。
それまでの疲れも忘れ、結羽は無我夢中で山頂を目指した。
辿り着いたそこは別世界。
遠くの山の稜線は目線よりも下にあり、遙か下界に広がる大地には緩やかな川の軌跡が描かれている。その周りには、ぽつぽつと家屋らしき人の営みが点在していた。
しばし登頂した感慨に浸る。
空が近い。手を伸ばせば、届きそうな距離だった。
頂上にひとつだけ佇んでいる樹氷の周囲には、窪みができている。その窪みのところから、なぜか淡い光が漏れていた。
あの光は、なんだろう。
結羽は身を寄せてみた。雪を掻き出して、樹木の根元を露わにする。
「これは……!」
花だ。雪の中に小さな、純白の花が咲いているのだ。一輪のその花が、淡い光を放っている。
光の輪がふわりと広がる。それは結羽の身体ごと包み込んだ。
優しくて、柔らかいのに、力強さを感じるぬくもりに陶然となる。
もしや、これが氷の花。
蕾のような形をしている氷の花は、袋状の花びらの中に、たぷんとした水分を蓄えていた。 いくら花びらに守られていても、この寒さで凍らないとは単なる水ではないようだ。もしかして、これは特殊な薬なのかもしれない。
この氷の花があれば、ユリアンの白熱病を治せる。
「助かるんだ……。ユリアンを治すために、氷の花をいただきます」
そっと両手で氷の花を根元から掬い上げる。するりと根は抜けて、長い茎と葉、そして白い花は結羽の手に収まった。
すると放たれていた光は徐々に狭まり、まるで内包されるかのように溶けてなくなった。透き通った美しさで、氷の花は凜然とした姿を霊峰の頂に晒す。
ざくり、と雪を踏む音がする。
誰もいないはずなのに足音が響き、はっとして振り向いた。
そこにいたのは漆黒の外套を纏う、銀髪の男。
「その氷の花を渡せ」
ヴァレンチンは帯刀していた剣を抜き、身構えている。水色の双眸には殺気が漲っていた。
いつの間に追いかけてきたのだろう。全く気づかなかった。
氷の花を手に入れるためにヴァレンチンは、結羽を殺すことも厭わないつもりだ。抵抗すれば斬られるのは容易に想像できた。
「渡さなければ、貴様を殺して手に入れる。アナスタシヤの名誉を守るために、死ね」
そんなことは、させない。
ヴァレンチンが結羽を斬れば、大切な氷の花が血に汚れてしまうから。
結羽はまっすぐに腕を伸ばし、氷の花を差し出した。
「どうぞ、お受け取りください」
潔い結羽の仕草に、ヴァレンチンはなにか罠でもあるのかと訝り、近づこうとしない。結羽は安心させるように微笑んでみせる。
「氷の花を、アナスタシヤ様の手からユリアンに渡してあげてください」
ヴァレンチンは瞳を瞠った。
結羽に迷いはなかった。始めから、そうするつもりだったから。
アナスタシヤが氷の花を手にすれば、初代皇帝の予言は成就される。異世界からやってきた妃が氷の花をもたらして皇国の危機を救う。
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