第41話
どこか遠くの国へ行こう。
そう決心していた。
「もう城にいたくないんです。僕は人間ですから、獣人たちに囲まれていることが苦痛で仕方ないんです。獣に変化するなんて、気味が悪いんです。元の世界にいたほうが居心地がいいですから」
練習した台詞をひと息に述べる。
淡々とした口上に、レオニートは信じられないといったように驚きを見せた。
「だが、君は一度も嫌悪を見せなかったではないか。雪豹に襲われたときも、私の白熊の姿を恐れなかった。こわくはないと言ってくれた」
「あれは……そう言えば、レオニートを慰められると思ったからです。本心ではありません。本当は恐ろしくてたまらなかったんです」
思っていることと真逆のことを述べるのは、心と喉元が引き絞られるような苦痛を伴った。でも獣人を否定しなければ、レオニートは結羽が城を去ることを許してくれないかもしれない。
これはレオニートと、アスカロノヴァ皇国のためなのだ。
そう信じた結羽は揺れ動きそうになる心を必死で抑えた。
机を回り込んだレオニートは結羽の眼前に立ち、真意を探るように瞳を覗き込んでくる。
「では、なぜ私を受け入れた。私の心に触れたいと言ってくれたではないか。私を好きだというのは嘘だったのか?」
なにもなかったと結羽はすべてを否定したのにもかかわらず、レオニートがあの夜に告白した結羽の言葉のひとつひとつを覚えていてくれたことに感激して、眦に涙が滲む。胸の奥から込み上げてくるものを、奥歯を噛み締めて堪えた。
嘘ではない。
けれど、嘘だと言わなければならない。
「……そうです。嘘なんです。あのときはその場の雰囲気に流されたんです。レオニートが僕を欲してくれたので、お相手しなければならないと義務を感じました。だって、白熊皇帝の誘いを、人間の僕が断れるわけないじゃありませんか……」
レオニートの表情に驚愕が広がる。結羽の放った棘のような言葉の数々が、彼の純粋な心に傷をつけたことを知った。
けれどその真心がむけられるべき人は、結羽ではないのだ。
最後に、まっすぐに紺碧の瞳を見つめた。
生涯忘れないように。
「レオニートはアナスタシヤ様と結婚するんです。だから僕はもう傍にいられません。どうか、お幸せに」
その気持ちだけは真実だった。
レオニートには、幸せになってほしい。愛する人と結ばれて、子を育んで。そして彼は偉大な皇帝として歴史に名を刻む。それが結羽の望みだ。
ヴァレンチンに脅されたからではない。自分の意思で、レオニートの傍を去って行くのだ。レオニートの幸福のために。
「待て、結羽。君に話したいことがある」
レオニートは腕を上げて結羽の肩を掴もうとしたが、身を引いてそれを阻む。
話は終わったのだ。結末はすでに見えている。
「今までお世話になりました。それでは、お元気で……」
身を翻して足早に扉へむかう。
レオニートがどんな顔をしているのか振り返りたい衝動に駆られて、必死に押し殺した。
だが出て行こうとしたとき、外から勢いよく扉が開かれる。
ノックをすることも忘れたダニイルの形相は悲愴と驚愕に塗られていた。
「陛下、大変です! ユリアン様が……」
「ユリアンがどうしたのだ」
「突然、倒れたのです! すぐに来てください」
一体、なにが起こったのだ。ユリアンにはなにも告げず出て行こうとしていたので、今日の彼の様子は目にしていない。体調になんらかの異変があったというのだろうか。
ダニイルに連れられて、レオニートと結羽はユリアンの居室へむかう。
突然倒れたというユリアンは、自室のベッドに横たわっていた。駆けつけたレオニートは苦しそうに胸を喘がせているユリアンを窺う。
「ユリアン、私だ。目を開けてくれ」
レオニートの呼びかけは耳に届いているのだろうか。瞼を閉じたユリアンは反応しない。小さな額に手を宛てたレオニートは傍らに控えていた医師を振り返った。
「なんという高熱だ。ユリアンはどうしたというのだ。病気なのか」
室内には医師を始め、側近たちが集まっていた。ヴァレンチンとアナスタシヤも入室してきて、心配そうに事態を見守っている。
医師はユリアンを診察した。胸に広がる異常なほどの数の白い発疹が、診察を見守っていた結羽の目に映る。単なる風邪とは思えない。
診察を終えた医師は苦渋の表情で皇帝の問いに答える。
「ユリアン様は、白熱病に罹っておられます。身体の白い発疹と高熱は、白熊一族が発症してしまう白熱病特有の症状です。この病に罹りますと高熱が続き、やがて発疹が全身を覆います。そうなりますと、呼吸と心肺は停止いたします……」
部屋中に動揺が広がる。このままではユリアンは死ぬという医師の見解に、結羽は息を呑んだ。
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