第40話
どうしてヴァレンチンは知っているのだ。レオニートは、そしてアナスタシヤはこのことに気づいているのか?
ぐるぐると世界が回り、天地が分からなくなった。結羽は必死で脚を踏みしめ、かろうじて立っていた。
「別荘に外泊した日があったろう。あの日以来、レオニートと貴様の態度がおかしいと訝っていた。それに今、腹に手を宛てていたな」
ふたりの関係を訝っていたヴァレンチンに、かまをかけられてしまったようだ。否定しなければと思うのに、喉元から言葉が出てこない。
「神獣の力は男でも孕ませる。先々代のアスカロノヴァ皇国で行われたことを知った貴様は、レオニートに近づいて子を得ようと誘惑したのだ。金を巻き上げるためにな」
「違います! お金のためなんかじゃありません!」
神獣の力で孕むことを知ったのは、診療所を訪れてからだ。断じて金のために画策したわけではない。
憎しみを込めて結羽を睨みつけたヴァレンチンに、胸倉を掴まれる。圧倒的な力の差によって宙に浮いた結羽の身体は、凍った池の上に吊り上げられた。
「では、なんのためだというのだ! 貴様はアナスタシヤの顔に泥を塗る気か。妃に成り代わろうというのか。平民の、人間の男の分際で、純血の白熊種であるアナスタシヤを愚弄するか!」
首許が締めつけられ、苦しさに脚を彷徨わせる。ヴァレンチンから殺意が漲る。
けれど彼はあっさりと手を放した。
解放された身体は池に投げ出された。硬く凍りついた氷の上に、どさりと倒れ込む。
「貴様らの不貞は黙っておいてやる。ただそれは貴様らの名誉のためではない。俺はいつでもレオニートを糾弾する用意がある。貴様は我々白熊一族の前から消えろ。婚姻が発表されるまでだ。そのときまで居座れば、子と貴様の命はない」
咳き込む結羽を見下ろしたヴァレンチンは、結羽に反抗の意思がないことを見て取ると、外套の裾を翻した。去り際に振り向いて、言い捨てる。
「もっとも、ただの人間に神獣の子を産めるわけもないがな。せいぜい血を吐いて母胎共々心臓が止まるのが末路だ。俺が秘密裏に死体を捨ててやる」
足音が去って行くと、風の音だけが鼓膜を震わせた。
手が、冷たい。
触れた氷のむこうは、遙か遠い異世界。
帰りたいという気持ちはなかった。結羽が生まれ育った世界に、レオニートはいない。
けれど、ここにも、結羽の居場所などなかった。
ヴァレンチンの言い分は正しいのだ。
言葉は辛辣だが、結羽は確かに、レオニートを誘惑して子を孕み、アナスタシヤを愚弄した。兄であるヴァレンチンが結羽を排除しようとするのも頷ける。皇帝と姫の婚姻において、結羽と子の存在は害にしかならない。
どこにも、行けない。
冷たい風よりも氷よりも、その事実が結羽の身を鋭く切りつけた。
結羽はのろのろと身を起こすと、髪に降り積もる雪を塗しながら、凍った池を後にした。
期限は婚姻の発表まで。
ルスラーン王国にレオニートの信書が届き、国王は使者を派遣したという情報が城内に流れた。
明日にも到着するであろう使者を待ち、その後にレオニートとアナスタシヤの結婚式の日取りが告げられることだろう。
結羽はひっそりと自室を片付けて、自分の服に着替えた。
アスカロノヴァ皇国を初めて訪れたときに着ていた、ダッフルコートとジーンズにセーター、そしてブーツ。懐かしいはずのそれらは、着てみると違和感を覚えた。
借りていた衣装や、レオニートにいただいた靴はすべて置いていこう。刺繍の施されたミドルブーツも、純白のスケート靴も。
持っていたら、きっと目にするたびに泣いてしまう。それにこれらはアスカロノヴァ皇国の財産だ。結羽個人の所有物ではない。
呼吸を整えて、覚えた台詞を復唱する。何度も、何度も。
決して心を揺るがさないよう、胸に刻んだ。
結羽は皇帝の執務室へ向かった。レオニートは会議がないときは、執務室で政務を行っている。
「失礼します」
机で書類に目を通していたレオニートは結羽の訪れに一瞬頬を緩ませたが、異世界の服を着用しているのを目にしてすぐに険しい顔つきになる。
「結羽、どうしたのだ。なぜ、その服を着ているのだ」
訝しげに眉を寄せながら、レオニートは席を立つ。
重厚な執務机の前まで機械的に脚を進めた結羽は、わずかに唇を震わせながら紺碧の瞳を見返した。
「帰ります。元の世界に」
「……どういうことだ。結羽がひとりで異世界へ行く方法は確立されていない。それにむこうへ行ったらもう、こちらへは戻ってこられないかもしれないのだ」
帰るつもりはなかった。唯一の方法は来たときと同じようにユリアンを伴うことだが、ユリアンを犠牲にすることはできない。それに結羽は、ここに戻ってくるつもりもないのだ。
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