第39話
「食事だけは摂ってほしい」
扉が閉まる音を耳にして、ようやく結羽は振り向いた。サイドテーブルには呼び鈴の隣に、食べかけの野菜スープの器が乗せられていた。
「……これでいいんだ」
小さな呟きは、しんとした室内に掻き消える。
器を手にして、残りのスープをいただく。甘みのあるスープは涙の味がした。
つわりも収まり、結羽の体調は回復の兆しを見せた。ただ心は沈痛なままではあるが。
今後のことを考えると気が重い。
子は堕ろしたくはない。けれど、このまま城で産めるはずもない。
レオニートにも城の誰にも知られずに産むとなれば、城を出て行くしかなかった。
かといって、アスカロノヴァ皇国には他に知り合いもいないので頼れる人がいない。
やはり、誰かに事実を打ち明けるべきだろうか。たとえばセルゲイはどうだろう。彼は村から通っているというから、彼の家に居候させてはもらえないだろうか。
結羽はかぶりを振った。
だめだ。セルゲイに迷惑はかけられない。彼にとっても重大な負担だろう。もし発覚すれば、セルゲイにまで罪を負わせてしまうことになりかねない。やはり自分の力だけで解決するべきだ。
そうすると、子を堕ろすということも、視野に入れなければならないのだろうか。
もっとも、無事に経過するかは分からないのだ。人間である結羽の身には、神獣の生命は荷が重いらしい。考えあぐねているうちに、体調が急変するおそれもある。
答えはでない。
結羽は城の周辺を散策しながら、ぼんやりと凍った池を眺めた。針葉樹に囲まれた池は湖ほど広くはなく、こぢんまりとしている。
この池は、異世界に繫がっているという。
ユリアンと結羽が通ってきた場所だが、記憶はなかった。
星がもっとも輝く夜に神獣の血を引く者が覗けば異世界へ行けるというが、今は昼間なので氷にはなにも変化が見られなかった。
ここから、元の世界に帰れる……?
けれど、自分ひとりの身ではないのだ。お腹の子は、神獣である白熊の血を引いている。ユリアンのように幼い頃は耳があって獣型に変化したら、人間だけの世界で生活するのは難しいだろう。
結羽はそっと下腹に手を遣った。子がいるような気配はない。
「ここに、いるの……?」
そのとき、背後で雪を踏む音がした。咄嗟に下腹に置いた手を下ろす。
振り向いた先にいたのは意外な人物だった。
「貴様はいつまで城にいるんだ?」
「ヴァレンチン様……」
いつもアナスタシヤの傍にいて離れないヴァレンチンだが、ひとりで散歩するようなこともあるらしい。アナスタシヤと同じ水色の瞳は、今日も不機嫌そうに眇められている。
いつまで城にいるという問いに、結羽はふと疑問に思った。
「ヴァレンチン様は、いつまでアスカロノヴァ皇国に滞在しているのですか?」
数日前にダニイルが、あの兄は妹と輿入れするつもりかと呆れ顔で語っていたのを思い出す。
ヴァレンチンが妹の身を案じて滞在しているのは分かるが、彼はルスラーン王国の次期国王なのだ。いずれ、近いうちに国へ帰らなければならないだろう。それは婚姻の発表が行われたときと推察できた。
素朴な疑問だったのだが、ヴァレンチンは眉を跳ね上げて恫喝してくる。
「なんだと? 貴様は平民の分際で俺を罵るつもりか!」
「そんなつもりはありません。ただ、いつまでなのかなと思っただけです」
「期日など貴様には関係ない。自分にやましいことがあるから、俺に問い返すのだろう」
ぎくりと身体を強張らせる。
ヴァレンチンが、あの夜のことや、子について知っているはずがない。
けれど、やましいことがあるという指摘を否定することはできなかった。
口を噤んでしまった結羽を見て、ヴァレンチンは鼻で嗤う。
「そら見ろ。貴様は皇弟の恩人という地位を笠に着て、皇国の甘い汁を吸おうと企んでいる害虫だ」
害虫に喩えられて、眉をひそめる。彼はまるで結羽がアスカロノヴァ皇国の宝を奪おうと画策しているかのように考えているらしい。そんなことは微塵も思っていないというのに、ひどい言い分だ。
「僕はアスカロノヴァ皇国から、なにかを頂戴しようなんて思っていません。ヴァレンチン様の考えすぎです」
「よく言う。しっかり頂戴しただろう。皇帝の子を」
戦慄が、足許から這い上がる。
結羽は瞳を見開き、ひゅっと息を呑んだ。
そのさまが肯定の証になり、ヴァレンチンは虫を見るような目で結羽を睥睨した。
「まさかとは思ったが、やはりな。この害虫め」
「どうして……」
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