第38話
レオニートに食べさせてもらうのは、これで二度目だ。
初めてのときは広場でかき氷を作ったとき。
彼は結羽の唇が触れたスプーンを使って、間接的にキスをした。
「おいし……」
喉を流れる野菜スープはほどよい甘さで、優しい味をしていた。作る人の真心が、染み込んでいる。
胸が切なく引き絞られ、結羽の瞳から大粒の涙が零れる。
レオニートは静かにスプーンを置くと、頬を伝う涙に唇を寄せた。
「あ……いけません」
口づけの予感に、はっとして手のひらで押し戻す。頬に触れる寸前でレオニートの唇は踏み留められた。
「なぜ。涙は拭わなくてはならない」
いけない。泣いてしまった。あれほど泣いてはいけないと固く誓っていたのに。
レオニートの優しさに触れると、誓いはかくも脆く崩れ去ってしまう。
結羽は心を強く保ち、毅然として告げた。
「誤解されるようなことをしてはいけません。アナスタシヤ様が哀しみます」
アナスタシヤの名を出せば、レオニートは冷めたように身を引いた。結羽は慌てて指先で、頬を伝う涙を拭い取る。
「……君の言いたいことはよく分かっているつもりだ。気を遣わせてしまうのも、私がいけないのだ」
「いえ、そんな。レオニートはなにも悪くありません。これは僕の気持ちの問題なのです」
「君の、気持ちの問題……?」
「そうです。僕だけの、問題ですので、僕がひとりで解決します」
レオニートの手を煩わせてはいけない。彼に対する恋心は、結羽の気持ちに折り合いをつけさえすれば解決する。
子のことも。
結羽が、ひとりで決断して然るべきなのだ。レオニートに迷惑はかけられない。
眉を寄せたレオニートは、訝しげに結羽を見た。
「君は、別荘での夜のことをどう考えているのだ」
「レオニート! それは」
禁句だ。そのことは決して口にしてはいけない。城では誰が聞いているかも分からないのに。
焦る結羽に構わず、レオニートは堂々と話を続けた。
「あの夜、私たちは身体を繫いだ。私は結羽の愛を確かに感じた。それなのに君は、自分だけの問題であり、ひとりで解決すると言う。あの行為はふたりで行ったものではないのか。私は、いい加減な気持ちで結羽に……」
「お願いです! もうやめてください!」
悲鳴のような声でレオニートの言葉を遮る。もし今の話がアナスタシヤの耳に入り、ルスラーン国王の知るところとなれば、婚姻は破綻してしまうかもしれない。そうなればレオニートが臣民の信頼を失ってしまう結果になる。
最悪の場合、退位を迫られるなどということになったら、結羽はこの手でレオニートのすべてを奪ってしまうことになるのだ。
そんなことはさせられない。レオニートは皇帝としてしか人々に望まれないことに孤独を抱えながら、自分を殺して平和な皇国を築き上げてきたのだ。その努力を、結羽が踏みにじるなんてことが、決してあってはならない。
「なにも、ありませんでした」
決然として告げた結羽の言葉に、レオニートは瞠目する。
恐れていたはずの言葉で、結羽は自らの心をねじ伏せた。
愛する人を守るためには、自分の戸惑いや悩みなんて、ちっぽけなものなのだ。レオニートのためならば、なにも恐れることなどないのだと軋む心に言い聞かせる。
「別荘に泊まった夜には、なにもなかったのです。レオニートは思い違いをしているんです。怪我をしてうなされているあなたを、僕は夜を徹して介抱しました。ですから、夢を見たのでしょう」
そうだ。一時の夢なのだ。
固く唇を引き結び、そう結論づけた結羽をレオニートはとても長い時間、凝視していた。
彼の唇は屈辱に耐えるかのように、戦慄いている。
結羽はあの夜のできごとを、すべて否定した。身体を繫いだことも、ふたりの愛情も、なにもかも。
そのことを自覚させられる時間はまるで地獄のような苦痛だった。
やがてレオニートは押し殺した声を絞り出す。
「……そうか。そういうことなのか。だが、君がそういった考えに至るのもやはり私の責任だ。待たせているのは私なのだから」
「……僕に気を遣っていただく必要などありません。どうか、もう出て行ってください」
顔を背けて、退出を促す。これ以上話していたら、子のことにレオニートが勘付いてしまいそうで、そうするとまた新たな火種になってしまう。
先々代の皇帝は側近の男性を数多く孕ませたと医師は語っていた。レオニートの祖父なのだから、彼も当然そういった事実を知っているはずだ。彼に気づかれてはならない。
顔を見ようともしない結羽に溜息をひとつ落としたレオニートは席を立った。
カチャリと食器の音が響く。
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