第37話
――産めるわけがない。
レオニートはアナスタシヤとこれから結婚式を挙げるというのに、愛人が孕んだなどと発覚すれば大変なことになる。
それに強大すぎる神獣の力ゆえに、流産や母胎の死亡という結果を迎えることも考えられるのだ。医師は過去の事例を鑑みて暗に堕胎を勧めていたが、そうすることがアスカロノヴァ皇国のためにも、結羽自身の身体のためにも一番良い選択だろう。
でも、この子は……?
結羽はそっと下腹に手を宛てた。
この子を、自らの手で殺してしまうのか。子は生きたいかもしれない。
否、始めから死を望む子なんて、いない。
たとえ誰にも望まれない子でも、結羽だけはこの子を守りたかった。
レオニートに、愛された証だから。
結羽は下腹を両手で守るように支えながら、唇を噛み締めた。
妊娠したことをレオニートに相談できるわけもなく、結羽は事実を隠し通した。食欲不振と吐き気は妊娠初期に見られる症状だそうだが、周りには体調不良と偽っている。
だが、部屋に籠もり続ける結羽をレオニートが見舞いに訪れた。
ベッドに伏していた結羽は驚いて身を起こした。
「ああ、起きずとも良い。具合はどうだ?」
優しい笑顔と穏やかな声音に、胸の裡から熱いものが込み上げる。
ぐっと堪えた結羽は、自然な笑顔を装った。声が震えないよう、平静な呼吸を意識する。
「平気です。お医者様は休んでいればじきに治ると仰っていました」
そうか、と答えたレオニートは椅子を引き寄せて、ベッドの傍らに腰を下ろす。
長居するのだろうか。病状を告げれば、すぐに帰ってくれると思っていたのに。
本音を言えば傍にいてほしいけれど、そうするほどに自分の想いと秘密を抑えきれず、いつ蓋が開いてしまうかと気が気ではない。
結羽は心許なく視線を彷徨わせた。
そんな結羽をじっと見つめていたレオニートは、大きな手のひらを伸ばした。額に温かな手が置かれる。
「熱はないようだ。だが顔色が優れないな。セルゲイは滋養のあるものを作ると張り切っていたぞ」
「すみません……。ただの疲れですから」
「身体が受け付けないのなら仕方ないが、少しでも食べてほしい。飲みやすい野菜スープはどうだ?」
「はい……あとでいただきます」
額を通して伝わるレオニートの熱に、泣きたい気持ちを必死に堪える。
そんなに優しくされたら、抑えきれなくなってしまう。
だめだ、泣いてはいけない。
結羽は奥歯を噛み締めた。
「あとで、となると、セルゲイはずっと廊下に立ち竦んでいることになってしまうな」
「……え?」
するりと額から頬にかけて、手のひらが滑り降りる。
瞬いた結羽に、悪戯めいた仕草で片眼を瞑ったレオニートは、サイドテーブルに置かれた呼び鈴を鳴らした。
するとすぐに盆を携えたセルゲイが入室してくる。
「良かったな、セルゲイ。厨房のパイは黒焦げを免れたようだ」
「なんの、陛下。あまりにもお呼び出しが遅いときは、私はこれをダニイルさんに預けてパイを救出しに参りますとも」
軽口を叩き合うセルゲイは、盆ごとレオニートに預けた。盆に乗せられているのは、クリスタルの器に盛られた野菜スープらしきものだ。
「結羽さん、この野菜スープは陛下の自作なので、味についてはご容赦を」
「セルゲイ! 私が作ったことは秘密だと言ったろう」
「もちろんですとも。陛下が覚束ない手つきで野菜を濾す姿はとても他の人には見せられません。料理長として私だけの胸に秘めておきます。さて、私はパイの焼け具合を見てきますね。後ほど結羽さんにも食べていただきましょう。もちろん陛下にも」
素早く部屋を出て行ったセルゲイとレオニートのやり取りに、結羽は頬を緩ませた。
レオニートは苦笑しながら、器に添えられたスプーンを手にする。
見ればそれは、かき氷を作ったときに使用したクリスタルの器とスプーンだった。
「まったく、セルゲイには敵わないな。暴露されてしまったが、この野菜スープは私が作ったのだ。料理をするなど初めてなのでセルゲイに指導を受けながら作ったのだが……料理人の苦労が垣間見えた。美味しくできていると良いのだが」
レオニートの自作料理という野菜スープは人参をメインに使用しているようで、美味しそうな橙色をしていた。野菜を濾した濃厚な香りに、結羽の腹がくうと鳴る。
「レオニートが……僕のために、作ってくださったのですか?」
「そうだ。食べてくれるか?」
こくりと頷く。レオニートは嬉しそうに目許を緩めると、ひとさじ掬ったスープをそっと結羽の口許に差し出した。
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