第36話

 レオニートがあんなにも幸福に満ち溢れているというのに、それを祝福することができない。

 自分はこんなにも狭量な人間だったのだ。情けなくて哀しくて、また涙は溢れてしまう。

 本当は、レオニートに結婚してほしくなかった。結羽だけを愛していると言ってほしい。もし白熊種に生まれていたならば、レオニートの妃になれるかもしれないという希望を持てたのに。

 心の奥から湧き上がる本心を、結羽は流れる涙と共に、今だけは解放した。

 好きだ、好きだ。

 深い紺碧の瞳、銀色に輝く髪、互いの手は氷上で固く繋がれていた。雄々しい唇に口づけられ、暖炉の灯りが照らす中で、ふたりの身体を繫いだ。

 今も滔々と放たれたレオニートの精が、身体の奥に残っているような気がする。

 結羽は扉に背をつけて蹲った。

 でも、分かっている。

 結ばれるはずなんてないと。

 始めから分かっているのだ。

 異世界からやってきた人間で平民の男。

 皇帝の妃になる対象であるはずがない。

 ただユリアンの恩人なので城に置いてもらっただけに過ぎない。レオニートが好意を見せてくれたのもきっと、恩人だからという理由なのだ。

 アナスタシヤこそが、レオニートの妃となって然るべきだ。

「僕が、伝説の妃のわけない……」

 もしかしたらと思った。異世界からやってきた自分は、皇国の危機を救うという伝説の妃の資格があるのではないかと。

 氷の花があれば、レオニートの妃になれるかもしれないと。

 ほんの少しだけ、心の片隅で期待した。

 現実として、そんなことがあるわけはないのだけれど。 

 別荘での夜、結羽はレオニートを心から愛し、彼に抱かれることを望んだ。レオニートも結羽に孤独を打ち明けてくれた。彼に情熱的に抱かれて、至上の悦びを味わった。

 けれどあの愛は、氷上の軌跡のようなものだったのだ。

 美しい軌跡は雪が降り、風に晒され、時間が経過すれば消えてしまう。

 そのような形の愛もあるのだ……。

 これから結羽にできることは、ふたりの婚姻を祝福することだけだ。そしてレオニートに抱かれた一夜を、永久に胸に秘めておくこと。

 状況は分かっているのに、感情を納得させることができず、嗚咽が込み上げる。

 結羽は初めての恋を封印する術を持たず、長い時間、ひとりで慟哭した。



 おめでとうございます、と口先で練習を重ねていた結羽は、訪れた診療所でその言葉を自分がかけられることになってしまった。

「ご懐妊ですよ」

 白衣を纏った老齢の医師は朗らかな笑みでそう告げた。医師の台詞の意味が理解できず、結羽は何度も瞬きを繰り返す。

「あの……先生。僕は男なのですが……」

 ご懐妊とはつまり、妊娠しているということではないだろうか。

 男の自分が妊娠するはずもない。今日は食欲不振や吐き気という体調不良の原因を調べてもらうべく診察に訪れたのだが、村の医師は冗談を言っているようには見えなかった。

 彼はカルテに図を描きながら、平淡に説明した。

「男性でも妊娠できます。この部分に子宮と同じ役目を果たす袋ができています。そこに子がいます。男性子宮は通常は退化したまま使われないのですが、神獣の精が注がれますと、機能が活性化して子を孕めるのです」

「神獣の精……?」

 唖然として医師の言葉を拾う。白熊一族は神獣の血を引いているという。まさか、という思いが脳裏を掠めた。

 医師はことり、とペンを置いて椅子を回転させ、青ざめている結羽に向き合う。

「私の父が宮廷医師を務めていた先々代の皇帝のときには、お手つきとなって子を孕む側近の男性がたくさんおりました。しかし神獣の力が強すぎるためか、母胎が耐えきれず子が流れてしまったり、母胎ごと死亡する事例が多く見られました。それが、白熊一族が衰退する要因になったともいえます。この妊娠は大変なリスクを伴います。あなたの健康にも多大な影響を与えかねません。……どうしますか?」

 どうするか、というのは、産むか、堕ろすかと聞いているのだ。

 突然のことで、頭の中が真っ白になる。

 このお腹の中には、白熊一族の血を引く子が宿っている。レオニートに抱かれた一夜で、神獣の精を注がれ孕んでしまったのだ。

 呆然とした結羽は、「考えます」とだけ返事をした。

「お相手の方とも、よく話し合ってくださいね」

「はい……。ありがとうございました」

 医師は相手が皇帝だと認知している。そして、人間の結羽の身体が妊娠に耐えられないであろうということも。

 診療所を出た結羽は轍の残された路を俯きながら歩いた。

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