第35話

 固唾を呑んで吉報を待ち受ける人々へむけて、レオニートは明朗に告げる。

「アナスタシヤに私の気持ちは打ち明けた。彼女もまた同じ気持ちでいてくれたことに、私は感謝した。両国の絆は永久のものであり、我々はその歩みを止めないことを、ここに誓おう」

 おめでとうございます、と喝采が湧く。

 結羽の心を、絶望の色をした染みが、じわりと広がっていく。

 眼が霞んで、レオニートの姿がよく見えない。

 まだ話は終わっていないとばかりに、レオニートは手を掲げて拍手を止めた。

「ついては、まずルスラーン国王に報告するのが筋であるとアナスタシヤと合意した。王に報せてから、皆に詳細を明かそう」

 大臣のひとりが、にこやかな笑みを浮かべながらレオニートに訊ねた。

「陛下、この婚姻はルスラーン国王がお勧めになったわけですから、あえてお知らせしなくても良さそうなものですが。発表は一刻も早いほうが、国民も安堵できるのではありませんか」

 大臣の言い分はもっともだ。婚姻の発表は一旦おあずけされた形になる。とはいえ、ルスラーン国王に信書が届くまでの短い期間ではあるが。

「そういうわけにはいかない。これは私とアナスタシヤの間で取り決めたことだ。ルスラーン国王に報告の義務がある」

「御意にございます。陛下とアナスタシヤ様の御心のままに」

 レオニートの意向は崩れず、大臣は深く腰を折った。婚姻は決定事項であるので、皆は安堵の表情を浮かべていた。ほんの少し先延ばしにされただけのことだ。側近たちは皇帝の決定を伝達するべく、慌ただしく部屋を後にする。ルスラーン国王への信書を用意するべく、大臣たちも部下に指示を出していた。

 ヴァレンチンは微笑みを浮かべるアナスタシヤの傍に寄り添い、白い手を取った。

「アナスタシヤ、嬉しそうだな。婚姻の日取りは決まったのか?」

 彼女は幸せそうな笑みを兄にむけた。結羽の目には、それがベールを被った花嫁の笑顔に見えた。

「来るべきときまでふたりだけの秘密にするという、レオニート様とのお約束です。お兄様にも明かせませんわ」

「そうか。俺はおまえが幸せになってくれさえすれば、他にはなにも望まない。父に信書が届くのを楽しみに待つとしよう」

 疲れたので休ませてもらうとヴァレンチンがレオニートに断りを入れて、アナスタシヤは兄に手を引かれて退出した。

 ヴァレンチンは妹のアナスタシヤにだけは優しい態度を見せ、とても彼女を気遣っている。 レオニートとユリアンの兄弟と同様に、お互いを大切に思っているのだろう。絶滅が危惧されている白熊種で、ふたりだけの兄弟という側面も唯一無二の存在となっている。

 僕は、どうして、ただの人間なんだろう……。

 もしも自分が白熊種であったなら。

 そんな詮無いことが、衝撃で空っぽになった頭をぐるぐると巡る。レオニートが別荘の一夜についてアナスタシヤに話したかなんて憶測は、どうでもいいことのように思えてきた。

 些末なことなのだ。純血の白熊種という絶対的な血族の絆の前には、ただの人間をつまみ食いしたという程度に、種族の格差は大きいことを思い知る。

 あれほど混雑していた控え室は人々が去ると、しんと静まり返る。

 レオニートはこちらに足をむけた。ユリアンに話をするのだと思われたが、レオニートは結羽の眼前に立ち、まっすぐに向き合う。

 思わず彼の顔を見上げてしまう。久しぶりに直視した紺碧の瞳は、希望の光に煌めいていた。

 その輝きにずきりと心臓が痛みを訴える。目を逸らしたい。けれどそれは、おめでとうございますと祝いの言葉を述べたあとだ。そう、ほんの少しの、我慢だ。

「聞いてのとおりだ。ルスラーン国王が信書に目を通すまでの、もう少しの間だけ待っていてほしい。すべて私に任せてくれ」

 自信に満ちたその態度に、結羽はレオニートが発した暗黙の了解を察知した。

 あの一夜のことは、アナスタシヤには黙っていてほしい。そういうことなのだ。

 レオニートは彼女の夫となるのだから、いずれ状況が落ち着いたら、自分から話すということなのだろう。今は大事な時期なのに、間男である結羽が動いて掻き乱していいわけがない。

「そうですね、レオニートに、お任せします」

 鸚鵡返しのような機械的な返答に、レオニートはわずかに双眸を眇めたが、それ以上なにも言わなかった。

 あの夜のことは生涯、結羽の胸に秘めなくてはならない。決して誰かに知られてはならないのだ。

 災いの素を口走ったりしないよう、礼をして素早く部屋を出る。ユリアンは皆が気になる婚姻の日について質問しているのを背中で聞いた。

 廊下を小走りで駆けながら、痛む心臓に手のひらを宛てて押さえる。

 おめでとうございます、と言えなかった。

 けれどいずれは口にしなければならない。

 言えるだろうか。今も、こんなにも心が乱れて、涙が溢れそうになっているというのに。

 自室に戻った結羽は扉を閉めて厳重に鍵をかけた。

 そこでもう、涙腺は決壊した。

 あとからあとから、滂沱の涙は流れ落ちる。

 僕は……愛する人の幸せを喜べないんだ……。

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