第34話
夜が明けると、別荘に城からの迎えの馬車が到着した。レオニートと結羽は何事もなかったかのように平静を装った。ダニイルは包帯の巻かれたレオニートの腕に驚き、緊迫した様子で詳細を訊ねてきた。おかげで彼は、ふたりのわずかなぎこちなさには気づかなかったようだ。
レオニートは襲ってきた雪豹を駆除することはしなかった。雪豹の領域に踏み込んだことに非があったゆえとし、今後は徒歩で移動せず、必ず馬車を使用することを取り決めた。
以来、怪我を負った皇帝の近辺は厳重な警護が敷かれることとなった。レオニートは別荘に行くことはなかったが、同時に湖のアイスリンクにも赴かなくなった。政務が忙しいようで、時間が取れないとのことだった。
結羽も誘うことはしなかった。誘えるわけがない。どのような顔をしてレオニートに会えばよいのか分からないのだ。
ふたりの間にはどこか気まずさが漂い、そしてそれはアナスタシヤが姿を見せると最高潮に達した。
改めて考えるまでもなく、アナスタシヤはいずれレオニートの妃となる人だ。
つまりあの一夜に行われた情交は、結羽が彼女を裏切ったということになる。無論、アナスタシヤはその事実を知らない。美貌の姫は常に無表情で兄のヴァレンチンを伴い、温室の薔薇を眺めている。レオニートとはどのような会話をしているのか結羽には分からないが、彼女から結羽やユリアンに積極的に話しかけてくるようなことはしなかった。いつもヴァレンチンが睨みを利かせているので、こちらから声をかけづらいという事情もある。
未だにアナスタシヤがどのような人格の持ち主なのか分からないのだが、だからこそ怖かった。
僕は、罪を犯した。
アナスタシヤ様に、謝らなければならない。
彼女がいかに優しい女性であっても、将来の夫を寝取られて許せるはずもない。どんな罵倒も受け入れなければならない。
けれど、いつどのように言い出せば良いのか見当がつかなかった。
レオニートも関わっていることだ。夫となる人の過ちを生涯許せないと言われたら、ふたつの国を揺るがす事態に陥ってしまう。
友好的な関係を築いている両国に亀裂を入れてしまうことだけは避けたかった。自分は大変な過ちを犯してしまったのだと、改めて罪の重さを痛感する。
結羽が無理やりレオニートに迫ったということにするのは当然だ。
だが、それでレオニートは納得してくれるだろうか。もしかして、あの一夜自体をなかったことにしたいかもしれない。
そう考えると結羽の心は砕けた氷のように千々に乱れてしまう。レオニートに相談したいという衝動が込み上げたが、なかったことにしよう、というひとことが彼の口から吐き出されるのは明確であるような気がして、どうしても言い出せなかった。レオニートのほうからも何も言ってこないので、少なくとも彼が別荘の夜の一件を避けたがっているのは明らかだ。
なかったことにしよう、と言われるのは怖かった。
愛されたことを、無に帰したくはなかった。
そのようなことを出口の見えないまま懊悩して、日々は過ぎていった。
アスカロノヴァ皇国に滞在しているアナスタシヤは、話が纏まればこのまま留まり、婚姻を結ぶという運びになる。
婚姻は決定的だと喜ぶ大臣たちの会話を耳にしながら、結羽は控え室で黙然と椅子に腰掛けていた。
今日はレオニートとアナスタシヤの会談が別室にて執り行われている。
特別な話らしく、ふたりだけにしてほしいとの要望なので、ヴァレンチンも向かいの席で苛々としながら会談が終わるのを待ち構えていた。
控え室には主立った重臣や側近たちも待機している。話し合いの内容は結婚に関することに間違いなく、お互いの意思の確認と日取りの相談だと、皆は吉報への期待に話を弾ませていた。
「陛下がいらっしゃいましたら、すぐに国民への報告をいたしましょう。段取りはできております」
「純血の白熊種同士の婚姻は国を挙げての吉事ですからな。お子さまが生まれれば、絶滅の心配も吹き飛ぶでしょう」
気が早い、そんなことはない、と笑いを交えての議論が巻き起こる。皆、とても楽しそうだ。皇国の人すべてが、レオニートとアナスタシヤの婚姻に期待を寄せている。
結羽だけが、憂いに沈んでいた。
婚姻、お子さま、という言葉のひとつひとつを耳にするたびに、身を切り刻まれる思いがする。
青ざめた結羽を、隣に座って脚をぶらつかせていたユリアンが覗き込んだ。
「結羽、どうしたの? 具合悪いの?」
「あ、いえ……なんでもないんです。最近、吐き気がして……ただの体調不良です」
「そうなの。ごはんもあまり食べないもんね。お医者さんに診てもらう?」
結羽は曖昧に頷いた。体調が優れないのは事実だ。近頃やたらと睡魔に襲われたり、食欲不振なのに吐き気が起こる。おそらく心配事があるので身体に表れているのだろう。
そのとき、会談が行われていた部屋の扉が開かれた。
姿を現した皇帝と姫に、皆は一斉に駆け寄る。
「陛下、いかがでございますか! ご成婚のお日にちはお決まりですか!?」
「アナスタシヤ様、陛下の妃となるご決心はつきましたか?」
レオニートは詰め寄る人々に手のひらを翳して、場に湧いた興奮を鎮めた。彼の表情は希望と喜びに満ち溢れていた。
後方から窺っていた結羽の心臓が、すうと冷えていく。
レオニートの隣に佇むアナスタシヤの精緻な顔にも、薄らと笑みが浮かんでいた。無表情しか見せたことのない彼女の初めての笑顔と皇帝の満足げな笑みに、人々はふたりの未来は明るいものだと確信した。
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