第29話

「やめるんだ、結羽! 食い殺されてしまうぞ、下がれ!」

 必死に叫ぶレオニートの声にも、動じなかった。

 僕は、レオニートに命も捧げると誓った。

 だからここで雪豹に殺されて命を落とそうとも、それは自らの望んだことなのだ。

 どんなにレオニートが結羽を退かそうとしても、脚を踏ん張り、歯を食いしばり、決して動こうとはしない。

 雪豹は姿勢を低くして、再び脚を蹴り上げた。

 結羽の首許をめがけて、鋭い爪が繰り出される。

 そのとき、背後で殺気を帯びた気配が走った。

 迫る雪豹の爪が細い首筋を捉える。結羽は、ぎゅっと目を閉じた。

 一瞬の後、悲鳴を上げた獣の身体が雪上に転がる。

「えっ……?」

 結羽の眼前にあるのは、高貴な純白の獣毛。

 それは王者の風格を漂わせた、大きな白熊だった。

「まさか……レオニート?」

 一度だけ夢うつつの中で白熊に温められたが、これがレオニートの獣型なのか。

 なんという気高さ、そして漲る皇帝の品格。

 白熊はまさに、この極北の王なのだ。

 轟く咆哮を上げた白熊は雪豹に襲いかかる。身を引いた雪豹はしばし応戦したが、すぐに地を蹴って逃げ出した。

 呆然として両者の戦いを見守っていた結羽は、ふと背後に赤いものを見つけて手を伸ばす。レオニートの血と、その隣には彼の着ていた服が脱ぎ捨てられていた。

 振り向いたときにはもう、白熊の姿はどこにもなく、裸のレオニートが静かな眼差しで結羽を見据えていた。

「……できれば、獣型に変化したくはなかった。結羽に、怖がられたくないからな」

 最強の白熊皇帝ともあろう人が、人間の結羽に怖がられるのを恐れるだなんて、なんだか可笑しくて、結羽はくすりと笑みを零した。

「驚いたけど、怖くはないですよ。でも服を着ないと風邪を引いてしまいますね」

 裸のレオニートに赤い上着を着せかける。釣られたようにレオニートも笑みを浮かべた。

「私の身体は丈夫なのだ。多少のことで伏せることはない」

「血が出ています。怪我の手当てをしないと……」

「言ったろう。かすり傷だから心配ない。けれど消毒くらいはしておこうか。結羽が手当てしてくれるか?」

「もちろんです。僕の肩に掴まってください」

「それはありがたい」

 脱ぎ捨てた服を身につけたレオニートは、結羽の肩を抱きかかえるようにして別荘への道のりを歩いた。



 辿り着いた皇家の別荘は明かりが灯っており、それだけで安堵することができた。暖炉に火が点されているので、室内はとても暖かい。

 けれど別荘内に人の気配はなく、しんと静まり返っている。無人であることに首を捻りながら、結羽は救急箱を探し出した。

「誰もいないみたいですね。この火はどなたが入れたんでしょう?」

 暖炉の前で上着を脱ぎ、裸の胸と傷ついた腕を晒したレオニートの顔色は悪くない。血の気は失われていないようなので、本当に平気なようだ。

「別荘は通いの召使いのみなのだ。私たちが泊まると伝えておいたので準備だけを済ませて、夜は帰っていく」

 ということは、今夜、この別荘には、レオニートと結羽のふたりきり。

 とくりと胸が甘く高鳴ってしまうが、慌ててかぶりを振る。まずはレオニートの怪我の手当てをしなければ。

「裂傷ができていますね。痛くありませんか?」

「痛いぞ。消毒薬が染みる」

「その余裕があれば大丈夫ですね」

 けれど油断は禁物だ。結羽は心配げにレオニートの傷と顔色を代わる代わる観察しながら、傷の手当てをして最後に包帯を巻いた。

「僕を庇って……申し訳ありません」

「気にすることはない。君を庇うのは、当然のことなのだ」

「え……なぜです?」

 疑問を口にしてから、とあることに思い当たり得心する。

 結羽は以前、ユリアンが車に轢かれそうになったところを助けた。結羽は弟の恩人だから、その恩を返すとレオニートは言っているのだ。

 けれどレオニートは熱を孕んだ瞳で、結羽をまっすぐに見つめた。彼の紺碧の瞳は暖炉の灯火を映して、黄金に煌めいている。

「君が、好きだからだ」

 その言葉の意味を理解するまで、結羽は長い時間を要した。

 好き。レオニートが、僕を、好き。

 けれどそれは、友人として信頼しているという意味かもしれない。

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