第9話
革のブーツの踵を音高く鳴らして廊下を歩くダニイルは重厚な声音でそう告げた。彼から見れば結羽は白熊一族の周囲をつきまとう小動物なのだ。
「そんなこと、わかってますよ」
「ならばいい。陛下、結羽をお連れしました」
数ある部屋のうち、とある扉をノックする。中から返事があると、ダニイルは卒のない所作で扉を開けた。
さっさと入れ、と鋭い眼差しで促される。もちろん、レオニートからは見えない位置だ。
「来たか、結羽。待ちかねたぞ」
部屋の様子を一目見た結羽は思わず後ずさる。
レオニートの周りには、夥しい量の靴が整然と並べられていた。まるで靴だけを残して人がいなくなったような、異様な光景である。靴屋でもこんなに沢山の靴は置いてないだろう。
「レオニート……この靴はどうしたのですか?」
「すべて、結羽の靴だ。裸足で歩いては冷えてしまうからな。結羽の足に合わせて作らせた」
以前、裸足で城内を探検したのちにレオニートに抱き上げられたことを思い出す。靴屋に靴を誂えさせようとは言っていたが、まさか本当に実行されるとは思わなかった。それもこんなに大量に。
今は元から履いていた自分のブーツを着用しているので特に不便はない。服だけは従者用の簡素なシャツとベスト、それに黒のズボンを借りている。
「こんなに沢山……いりませんよ。なんという贅沢をするんですか。僕の足は二本しかありません」
目眩を起こしながら唖然として靴の大群を見遣る。磨き上げられた革のブーツや毛皮の付いたローファーなど、どれも高級そうな仕様だ。スケート靴まである。これらが全部自分のためだけに作られただなんて。
最高の贅沢に恐れ戦く庶民の結羽を、レオニートは背を抱いて優雅にエスコートする。
「いらないと言っては、手がけた職人が気の毒だ。気に入ったものを履いてみてはどうだ?」
「そうですね……。では試着だけ……」
金色の猫脚が付いた羅紗張りの椅子に座らせられる。レオニートは数ある靴のうちからひとつを選びだした。
「これはどうかな。食事をするときなど、ぴったりだ」
精緻な金色の刺繍が靴の甲に描かれたミドルブーツは藍色の天鵞絨が使われている。踵の部分まで金細工が施されており、まるで美術品のような繊細な美しさだ。
果たして食事をするときに似合う靴などあるのだろうか。屋内の靴といえばスリッパしか知らない結羽にはよく分からない。
「そうですね……。食事のときに丁度良いかもしれません……。では、履いてみますね」
履いているブーツを脱ごうと屈んだが、レオニートに制される。
「そのままで。椅子に座ったら、屈んではいけない」
「……? はい」
屈まないと靴は脱げないと思うのだが。
首を捻っていると、レオニートは椅子に腰掛ける結羽の眼前に跪いた。
息を呑んだのは結羽だけではなかった。
「陛下……ッ!」
壁際で見守っていたダニイルが咄嗟に踏み込む。
皇帝ともあろう人が、平民の結羽に膝を着くなんてことがあってはならない。そんなことは結羽にも分かる。
結羽は即座に椅子から降りようとしたが、レオニートの逞しい腕に押し留められた。
「やれやれ。まるで私が暗殺されるかのような形相だな、ダニイル?」
「陛下。皇帝がそのような下賤の者に跪くなど、なりません」
「公式の場ではあるまいし、おまえは硬すぎる。それに結羽は下賤などではない」
「は……。しかしですね」
結羽の細腰は大きな手のひらに掴まれて、ゆっくりと椅子に戻される。レオニートは口端に笑みを浮かべながらダニイルに手を振った。
「おまえは扉のむこうに控えていろ。邪魔でかなわない」
苦々しく唇を歪めたダニイルだったが、主君の命には逆らえず、礼をひとつすると部屋を出て行った。きっと彼は扉に張り付いて、結羽が皇帝に無礼を働かないか耳を澄ましていることだろう。
「レオニート……どうして?」
ダニイルの指摘するとおりだ。結羽は皇帝に傅かれるような身分ではない。
それなのにレオニートはまるで結羽を大切なもののように手厚く扱ってくれる。
結羽の前に跪いたレオニートは、紺碧の瞳をまっすぐに注ぐ。
ふ、と柔らかい笑みを刻んだ。
「私が、そうしたいからだ。結羽に靴を履かせたいのだ」
気まぐれだろうか。誰にも傅いたことのない皇帝だから、誰かに傅く真似事をしてみたいのだろうか。
けれどレオニートがそうしたいと望むなら、結羽はそれを叶えるだけだ。
大人しく椅子に座る結羽の足から、ブーツがゆっくりと脱がされていく。
なんだか恥ずかしい。
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