第8話
ユリアンは素直で愛らしく、結羽を友人のように慕ってくれる。それに年上の結羽に指導するという立場を与えられたので、特別な任務を課せられたと思ったのか、懸命に教えてくれるのだ。
おかげで結羽はするすると本を読めるようになり、アスカロノヴァ皇国の歴史書まで紐解けるまでに至った。
アスカロノヴァ皇国の歴史は古く、皇国が建国してから千年ほどになるらしい。
太古より氷に覆われた極北の地には、様々な獣や人間が住んでいた。厳しい寒さを生き抜くために進化していった生物はやがて、獣型と人型の双方の姿に変身できるようになる。戦うときには獣型に、道具を扱うときには人型にと、それはとても効率的な変化だった。
その獣人の祖が、神獣である白熊一族である。
変化の力を手に入れた獣人たちは見境なく奪い合い、領土争いを繰り広げたが、神の遣いである白熊の血族は国という形を取って無益な争いを収めた。アスカロノヴァ皇国を建国し、周辺にも一族たちによる国を造り、国民に規律を守らせた。
獣人をはじめ、人間や動物たちは白熊の血族に従った。彼らは民を心から愛し、民もまた白熊の血族を信頼していたからである。
そしてアスカロノヴァ皇国の初代皇帝が臨終の際、こう言い残したという。
『皇国はいずれ危機を迎える。そのとき、異世界より参りし者が携えた氷の花が皇国を救うだろう。その者こそ皇帝の妃となるべき運命の者である』
皇帝の遺言は末永く語り継がれた。
いつの日か、異世界から氷の花を持った妃がやってきて、皇国の危機を救ってくれる。それは伝説となり、民の胸に深く刻まれた……。
結羽は溜息を吐いて歴史書を閉じる。
以前レオニートが語っていた伝説の妃とは、このことらしい。初代皇帝の予言と言うべきだろうか。
おそらく誰もが気がついていることだろうと思うが、初代皇帝は人々の心に希望を残したのだ。皇国になんらかの危機が訪れても、救世主が現れて助けてくれるので希望を捨てるなと、初代皇帝は言いたかったのではないだろうか。
これまでのアスカロノヴァ皇国は平和で争いもなく、人々は平穏に過ごしている。それは歴史書が教えてくれた。
だから皇国が迎える危機とは、いずれという話であり、まだ遠い未来ということなのだろう。
書き物をしていたユリアンは、ふと手を止めて結羽の開いているページを覗き込む。
「伝説の妃のことでしょ? アスカロノヴァのひとたちはみんな知ってるよ。結羽は異世界から来たから、兄上のお妃になったりして」
さらりと、とんでもないことを言い出すユリアンに慌てた結羽は本を取り落としそうになる。
「ままま、まさか、そんなわけないですよ。大体僕は男ですし。それに氷の花を持っていませんから」
伝説と一致しているのは異世界から来たというところだけだ。
ユリアンも冗談だったらしく、笑って頷いた。
「伝説の妃はお伽話なんだよ。だって、どんな病でも治せる氷の花を誰も見たことがないし、異世界からも誰も来たことないんだもの。……あ、でも結羽はアスカロノヴァに初めて来た異世界のひとだから、半分は本当だね」
結羽はたまたまユリアンと共にアスカロノヴァ皇国に来てしまっただけで、伝説の妃などではない。もう足の怪我も良くなったので、元の世界に帰らなければならないだろう。
ただ、行き来する方法は明確ではない。
星がもっとも輝く夜に神獣の血を引く者が池を覗けば異世界へ行けるそうだが、帰ってこられる保証がないのだ。神獣の血を引いているユリアンを抱いていたから、結羽はアスカロノヴァ皇国に来られたわけで、ひとりでは帰れないだろう。
とはいえ、戻りたいかと自分の胸に聞いてみても、答えは出なかった。元の世界に戻ったところで、待っている人は誰もいない。
物思いに耽る結羽の考えを見透かしたように、ユリアンは表情を曇らせる。
「ねえ、結羽。異世界に帰りたいの?」
「う……ん……」
「お願い、帰らないでよ。ずっと、ぼくと兄上のそばにいてよ」
「ユリアン……」
腕に縋りついてくるユリアンを、いつの間にか壁際に立っていたダニイルが引き剥がした。「さあ、ユリアン様。次はピアノのお時間です。教師がピアノ室で待っています」
「きっとだよ、結羽!」
ダニイルから召使いに引き渡されたユリアンは去り際に叫んだ。結羽は曖昧な笑みを浮かべて片手を上げる。
ユリアンは友人がいないので寂しいのだろう。異世界から連れてきた結羽に責任を感じているのかもしれない。
「おまえはこっちだ」
雑にダニイルに顎で促される。近衛隊長だという彼は主君の前では忠実だが、結羽に対しては小動物のごとき扱いである。
むしろダニイルの態度こそ、然るべきものかもしれない。
神獣の白熊皇帝に仕える誇り高き獣人から見れば、単なる人間で、しかも異世界からやってきた結羽なんて野兎のようなものだろう。
「あまり調子に乗るなよ。陛下やユリアン様がおまえを重んじるのは、あくまでも恩人だからだ。つまり偶然、ユリアン様が危険な目に遭った現場に居合わせたというだけのこと。おまえ自身に価値があるわけじゃない」
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