闇に囚われた彼

「彼を取り押さえるんだ!」


 その声に反射的に心臓が跳ね上がり、背中に冷たい汗が流れた。振り返る余裕もないまま、黒い戦闘服の男たちが風のように私をすり抜けていく。彼らは一直線に弓鶴くんに突進していった。あまりに速く、私はその場に立ち尽くし、凍りついたように何もできなかった。ただ見守るしかなかった。


次の瞬間——


「ぐあっ!」


「うわっ!」


 男たちが次々と見えない壁に弾かれたかのように跳ね返され、地面に叩きつけられていった。驚きで息を飲み、反射的に両手で顔を覆う。猛烈な風と砂埃が吹きつけ、目を開けるのも辛くて、体が小さく震えた。何が起きているのか、信じられなかった。


 風が収まると、恐る恐る顔を上げる。目の前に広がっていたのは、蜃気楼のように揺らぐ空間。弓鶴くんの周囲がぼやけて見え、現実が遠のいていくようだった。彼は一歩も動かず、ただそこに立っている。その静けさが逆に異常に思えるほどに。


「藤堂さん、自分には何も視認できませんでした」


 地面に腰をつけた男の人の震える声が、現実に引き戻す。もう一人の大柄な男の人に向けての報告……何も見えなかった? あれだけ吹き飛ばされたのに? 一体何が起きているの?


 藤堂さんと呼ばれた人は、かろうじて転倒を免れたようで、倒れた男の人に手を差し伸べつつ、弓鶴くんの方へ視線を向けた。周囲の男性たちも、怯えながら少しずつ距離を取っていく。


「これは……一体どういうことだ?」


 低く呟く藤堂さんの言葉には、冷静さの中に深い疑念が滲んでいた。彼もまた、何が起きているのか理解していないのだろうか……?


 そして、その疑念を打ち消すかのように、彼は口を開いた。


「もしかすると、我々は弓鶴くんが作り出した巨大な『場裏じょうり』の中にいるのかもしれん」


 場裏……? その言葉に、私だけじゃなく、周りの全員が息を呑んだ。


「そんなばかな」

 

 男の人たちの声が震える。でも、藤堂さんの言葉は確信に満ちているように聞こえる。


「ありえないだろう、こんな規模の場裏なんて……」


「どんな術者でも、こんなことはできない!」


 皆が騒ぎ始める中で、藤堂さんだけが冷静に、まるで当たり前のことのように言い切った。


「その不可能が、今俺たちの目の前で起きているんだ」


 埃を軽く払いつつ、続けて彼は説明を始めた。


「弓鶴くんの流儀は『白』だ。白は大気を操作する術。おそらく、彼は空気を圧縮し、一気に解放することで爆発的な力を生み出し、それを防御障壁として使っている。単純だが非常に厄介な技だ……。しかもこの空間は彼の場裏そのもの。その中にいる我々にとって、現象の発生を感知することは……困難と言わざるを得ない」


 何もできない見ているだけしかない自分が悔しくて、胸がギュッと締め付けられる。


 藤堂さんは、怯える男たちを見てすぐに指示を出した。


「仕方がない、麻酔銃を使え。今の彼は理性を失っている可能性が高い」


 背後に控えていた戦闘服の男の人が一歩前に出たとき、目に飛び込んできたのは、銃よりも大きなレシーバーと、長い銃身を備えた異様なミニライフルだった。それはテレビのニュースで見た記憶がある、麻酔薬の入った投薬器を、撃ち出すための武器……その事実に気づいた瞬間、心臓が跳ね上がった。


「ちょっと待ってください! 本当にそれで彼を撃つんですか!?」


 思わず声が出た。彼に銃を向けるなんて、考えたくもない。


 藤堂さんが静かに頷きながら、私に近づいてくる。「そうだ」と短く言った彼の声は、どこか冷静で落ち着き払っているのに、何かしらの覚悟を感じさせた。


「今の彼は、力に呑まれて理性を失っている。これ以外に暴走を止める手段がないんだ」


 暴走……? 理性を失ってる? 彼が? 頭の中で何度も繰り返しながら、信じられないという思いが強くなっていく。どうしてそんなことになるの? どうして……。


「力に呑まれて……暴走って、いったい……?」


 言葉を紡ぐのが精一杯だった。問いに答えを求める私に、藤堂さんは深い溜息をつきながら答えを濁す。


「詳しいことは言えないが……彼はんだ。その力のせいで、今はとても危険な状態だ。準備はしてきたが……まさかこれほどとは思わなかった」


 彼の言葉には、予想外の事態に戸惑っている様子がうかがえた。だが、わたしの頭にはその事実がまだ消化しきれていない。


 弓鶴くんが強すぎる……? 危険だなんて……?


「そんな……」


 思わず呟いた声が、自分でも驚くほど小さく響く。弓鶴くんが危険……暴走している……? でも、あの風、あの異常な空間の歪みは……確かに普通じゃない。何かが普通と違う……。


 藤堂さんはわたしを見て、少し柔らかい声で言い添えた。


「大丈夫だ。威力は抑えてあるし、狙うのは腕と脚だ。彼を傷つけることはない。これが唯一の安全な方法なんだ」


 でも……それがどんなに優しい声で言われても、わたしの不安は消えない。目の前にいるのは、わたしを救けようとしてくれた人。そんな彼に銃を向けるなんて、どうしても納得できない。


 そして、静かな射出音が響いた。わたしの目の前で、投薬器が矢のように放たれ、まっすぐに弓鶴くんへ向かって飛んでいく。心臓がまた高鳴る。だけど……それは見えない壁に阻まれたかのように、風に巻き込まれてくるくると回転し、地面に落ちた。


「……!」


 その瞬間、全員が息を飲んだ。


「届かないだと……」


 耳に入ってきた言葉が、まるで遠くから響いてくるように感じた。現実だって、どこか薄膜越しに見ているみたいで、足元が揺らぐ感覚がする。周りの戦闘服を着たメンバーたちが落胆するのが目に入る。どうして……正気を失っているはずなのに、的確に防御を展開できるのだろう。


 藤堂さんはすぐに次の指示を出す。発煙弾、催涙ガス、マスクの確認……手順は冷静で、非情だった。彼の手が止まることはない。わたしには「できるだけ後ろに下がって」とだけ言った。


「彼を、弓鶴くんを止められないんですか?」


 思わず詰め寄った。そんなの、信じたくなかった。藤堂さんは、少しの迷いもなく首を横に振った。


「現状では困難だ。まず、あの術者は助からないだろう。それに、彼をこのまま放置すれば……」


「どうなるっていうんです?」


 わたしの問いは震えていた。自分でも驚くほど、小さくて弱々しい声だった。


「力に心を持っていかれた術者は、際限なく力を取り込もうとする。行き着く先は……破滅。すなわち死だ」


 冷たい、あまりにも冷たい言葉が、わたしの胸に突き刺さった。まるで時間が止まったかのように、全身が凍りつく。


「そんな、そんなことって……」


 弓鶴くんの背中に湧き上がる黒い塊。それが、彼をここまで追い詰めたのだろうか。彼の優しさや、静かに微笑む顔を知っているわたしの前で、今、あの黒い影が彼を飲み込もうとしている。それは理性も、心も、すべてを奪い去り、彼を破壊的な力に変えた。


 わたしの目には、弓鶴くんがどんどん遠ざかっていくように見えた。手を伸ばしても、届かない。声をかけても、響かない。まるで深い闇の中に沈んでいくような感覚が、わたしの胸に広がっていく。


 どうしたらいいの……?


 どうしたら彼を救えるのだろう。わたしにはなんの力もない。ただ立ち尽くすことしかできない。心が重く沈んでいく。まるで世界中が冷たい霧に包まれてしまったかのように、視界も、希望もぼやけていく。わたしはただ、無力な存在だった。


 その時、心の奥深くで不思議な声が響いた。



 その声は、わたしのものではないし、知っている誰かの声でもない。耳にしたこともない、でもどこか懐かしいような響きがあった。まるで、わたしの心の深いところから、誰か別の存在が問いかけてくるようだった。

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