全て呑み込む深淵の黒
突然、目の前の世界が揺らぎ始めた。弓鶴くんの背中から、何かが静かに、けれど確実に滲み出してきた。それは、光すらも吸い込むような深淵の黒、全てを飲み込みそうなほどの暗さだった。まるで触れるだけで凍りつきそうな、その漆黒の闇に、わたしは心臓が冷たくなるのを感じた。
「な、なに……これ……?」
言葉がかすれ、思わず後ずさる。弓鶴くんの背中からあふれ出したその黒い物体は、まるで生きているかのようにうねり、周囲の空間を無慈悲に侵食し始めた。現実が次第にぼやけていく中で、わたしの鼓動は早鐘のように響き、恐怖が全身を襲った。
黒い霧はまるで彼の感情を反映するかのようで、その強い決意が、今やこの漆黒によって具現化されているように思えた。
「弓鶴くん……」
その名前を呼ぶけれど、自分の声がかすれて消えていくのを感じていた。
これは夢?それとも……現実?
混乱と不安が頭の中で渦巻く。目の前の弓鶴くんが、まるで別人のように見える。その姿に、現実感が次第に薄れていく。彼の背中から流れ出る漆黒の霧は、すべてを飲み込みそうなほどの圧倒的な存在感を放っていた。
突然、彼の口から低いうめき声が漏れた。その音はまるで獣の唸りのようで、深く恐ろしい響きが耳に届いた瞬間、全身が凍りつくような感覚に襲われた。心臓が早鐘のように打ち、恐怖が血液を凍らせる。
「こ、こわい……」
心の中でそう呟くけれど、声に出すことはできなかった。恐怖が身体を縛りつけ、逃げることも、動くこともできない。ただ、目の前の異常な光景に立ち尽くすことしかできなかった。
隣にいた鳴海沢も、同じようにその光景に驚愕していた。あれほど余裕のあった彼の顔にも、恐怖と動揺が浮かんでいる。目が大きく見開かれ、彼の唇がわずかに震えていた。
「な、何なんだこれは……?」
鳴海沢の声には、冷静さがまるでなかった。彼ですら、この状況の異常さに圧倒されているのがわかる。弓鶴くんの唸り声は、ますます強く、低く響き、空気を震わせる。その姿は、まるで悪夢の中の怪物のようで、わたしの恐怖をさらに煽り立てた。
恐怖に押しつぶされそうになりながら、目の前で繰り広げられる異常な光景を見つめる。彼の背中から漏れ出す黒い霧が、まるで生きているかのようにうねり、周囲の空間を無慈悲に侵食していく。まるで彼がこの闇を解き放つために生まれ変わってしまったかのようだった。
「弓鶴くん、いったいあなたは、どうしちゃったの?」
心の中で叫ぶけれど、その言葉は届かない。恐怖に縛られ、何もできない自分が情けなく、悔しさで胸が痛んだ。それでも、鳴海沢は冷静さを取り戻そうと必死に言葉を紡いでいた。
「だが、忘れていないかい? 君はまだ僕が展開した場裏の檻の中にいるんだよ?」
鳴海沢がそう言って腕を振った瞬間、信じられないことが起こった。突如として、弓鶴くんを包み込むように白い半透明の膜が現れたのだ。
「えっ……!?」
わたしは驚いて目を見開く。膜はまるで生きているかのように脈打ち、次第に周囲の空気を飲み込むように膨張していった。外部からの音が突然消え失せ、まるでこの膜が外界との接点を断ち切ったかのように感じられた。
「僕の場裏が……消えただと?」
見れば、彼が場裏と語っていた青い靄に包まれた球体は、跡形もなく消えていた。
鳴海沢の驚愕した表情は、状況の異常さを物語っていた。彼の目は大きく見開かれ、その瞬間、彼が思っていたよりも事態が深刻であることを悟った。
弓鶴くんの背中から広がる黒い闇は、ますます激しく蠢き出し、まるで何かを引き寄せているかのようだった。
「まさか……君は僕から場裏だけではなく、僕が集めた【
鳴海沢の言葉が、白い膜の中で虚しく響いた。しかし、弓鶴くんは何も答えず、ただ冷たい沈黙を保ったままだった。ゆっくりと顔を上げる彼の目には、冷たい光が宿っているようで、まるで心の奥底に眠る獣が目を覚ましたかのようだった。
弓鶴くんは、まるで夢遊病者のように、ゆっくりと鳴海沢に向かって歩き出した。
わたしの心の中で恐怖がさらに広がっていく。でも、何もできない。ただ、この場に立ち尽くすしかなかった。鳴海沢も、弓鶴くんの異常な行動に戸惑い、恐怖に支配されているようだった。
「こんな術者、存在するわけがない……」
鳴海沢の声が震え、その瞬間、わたしの中で何かが決壊するような感覚が押し寄せてきた。
もう、どうしようもなかった。何が起こっているのか、これからどうなるのか、全くわからない――ただ、目の前の現実に圧倒され、心が乱されていく。
弓鶴くんの背中に集まった黒い物体は、依然として生き物のように波打ち、触手のように不気味に蠢いていた。その様子は、まるで彼自身が闇に飲み込まれていくかのようで、恐怖はどんどん深まるばかりだった。
「そうか、君が持つ色は……【黒】だったのか……。それがどういう意味を持つかわかっているのか?」
震える鳴海沢の問いかけは、彼の恐怖と無力感を象徴するもので、まるでヘビに睨まれたカエルのように、彼は動けずに立ち尽くしていた。弓鶴くんは彼に迫ると、ゆっくりと手を伸ばし、まるで何かを掴もうとするような動作をした。
「……しね」
その瞬間、耳をつんざくような轟音と共に、爆風が前方へ向かって突き抜けた。鳴海沢は、巨大な物体に突き飛ばされたかのように吹き飛ばされ、声を上げる暇もなく、人形のように無機的に地面に激突した。
その光景はあまりにも速く、激しく、わたしはすぐに猛烈な風と砂塵に襲われて地面に伏せるしかなかった。風が収まってきた後、恐る恐る顔を上げると、弓鶴くんが立っている先、約十五メートルほどの距離に鳴海沢が仰向けに倒れているのが見えた。彼は死んではいないようで、激突の衝撃で昏倒し、四肢を震わせていた。
「今のはいったい……」
その出来事があまりにも異常で、わたしの思考は完全に追いつかず、ただ呆然としているしかなかった。鳴海沢が吹き飛ばされた理由が全く理解できなかった。
「終わったの……?」
ほっとした気持ちとともに、ようやく深く息をつくことができた。心臓の鼓動が痛いほどに高まり、緊張の極限を感じていた。しかし、事態はまだ収束していなかった。
「……こ、ころす……」
その言葉に、わたしは驚きと恐怖で目を見開いた。弓鶴くんの背中に広がる黒い物体は依然として蠢き続けており、彼はふらつきながら倒れている鳴海沢に向かって歩き出した。
「ころす……ころしてやる。ぜんぶおまえらのせいだ……。おまえらなんかがいるから……」
彼の言葉はうわ言のようで、暗く、重く、憎悪と殺意がその口からこぼれ落ちていた。弓鶴くんの背中から流れ出る黒い闇はますます激しく蠢き、彼の意志と感情の深いところにある苦しみと怒りが形となって表れているようだった。このままでは、更なる惨劇が待っているに違いない。
わたしの心は恐怖で凍りつき、何もできない自分にただ打ちひしがれるだけだった。目の前の弓鶴くんが、ただの人間ではない何か、恐ろしい存在になりつつあるのを感じながら、どうにかしてこの状況を打開しなければならないという焦りが募っていく。しけれど、恐怖に震えるわたしの身体は、動かすことすらできない。
背中の黒い物体がさらに膨れ上がり、弓鶴くんの姿を包み込むようにうねり始めた。彼の周囲には不気味な空気が漂い、まるで彼が何かを召喚しようとしているかのようだった。その様子に、わたしの中にわずかに残されていた冷静さが、ほんの少しだけ顔を出した。
わたしはどうすればいい?
自分が取るべき行動を考えながら、頭の中で葛藤が渦巻く。しかし、何もできずにいる自分が嫌でたまらなかった。
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