冷徹なる青
その時、空気を切り裂く音がして、まるで海が怒りの声を上げたかのような激しい水しぶきが巻き起こった。わたしの視界は瞬時に奪われ、冷たい水が頬に叩きつけられる。まるで冷ややかな手が一斉にわたしを押し包むような感覚に、全身が凍りついた。
「きゃっ!?」
不意に出た悲鳴。水滴が無数に舞い上がり、朝の光を受けてキラキラと輝いていた。それがまるで、非現実的な光のカーテンのように、周囲の世界をぼやけさせる。湿り気を帯びた空気が肌にまとわりつき、わたしの呼吸を重くする。ひんやりとした感触が髪を伝い、首筋を冷たく湿らせた瞬間、わたしの心は何か異様なものに触れたようにざわめき、鼓動が早まる。
「なんなの……?」
体が硬直し、わたしは無意識に目を閉じてしまった。しかし、それでも感じる。空気の張り詰めた冷たさ、異様に重い沈黙。そして、全てが変わってしまったという感覚。
恐る恐る目を開けると、そこに広がる光景は――信じられないほど残酷で、現実感がなかった。
わたしの手を掴んでいたはずの男性が、苦悶の表情を浮かべ、膝から崩れ落ちていたのだ。彼の手首、戦闘服の袖の下から覗いている部分には、小さな穴が開いていて、そこから鮮血がしずくのように滴り落ちていた。ぽたぽたと音を立てながら、彼の周りに広がる血は鮮やかに地面を赤く染め、わたしの目に焼き付くようにその光景が広がる。
目を背けられない。凍ったように動かない体。胸の奥で恐怖が膨れ上がり、声を出そうとしても、何も出てこない。ただ、その赤い血の色が、深く深くわたしの心に刻み込まれていく。
この瞬間が、何かの終わりを告げるような予感がした。
「ああ……」
震えが止まらない。あの恐ろしい光景が目の前で展開されているのに、全身が硬直し、冷たい汗が背中を伝う。
そして、目の前に浮かんでいたのは、二つの青白い霧に包まれたバレーボール大の球状の存在。何かの意志を持っているかのように、無言でわたしを取り囲んでいるその光景が、ますます現実離れしていた。霧の中に漂う青白い光は、まるで幽霊の手のようにわたしの心に冷たい影を落とし、恐怖は次第に膨れ上がる。
「どうなるかって、こういう事さ。少しでも動いたら、君は死ぬよ……」
低く、無感情な声が耳元に響く。冷たく、深く心の奥底にまで届くその言葉に、息が止まりそうだった。
声の主、鳴海沢は冷酷無比な表情でこちらを見つめていた。先ほどまでの穏やかな雰囲気は跡形もなく消え去り、今、目の前にいるのは容赦のない冷徹な人物だ。その声に込められた冷たさは、ただの脅しではなく、現実の脅威としてわたしに襲いかかってくる。
「それと、だめじゃないか君たち。これは僕と柚羽くんとの交渉事なんだ。邪魔するなんて無粋にもほどがあるよ」
鳴海沢の声に応じて、黒い戦闘服の男たちは動きを止め、負傷した仲間のもとへ駆け寄る。彼らの慌ただしい動きが、ますますこの場の緊迫感を増幅させ、わたしの心臓は今にも破裂しそうだ。負傷者の痛々しい姿を目の当たりにして、わたしは胸が締め付けられるような苦しさを感じる。
「すでに君たちは僕が展開した、【
彼の言葉に、何かが引っかかる。胸の奥でじわりと湧き上がる違和感。わたしは眉をひそめ、鳴海沢の言葉を反芻する。確かに、彼の言葉には何かが足りない気がする。
おぼろげではあったが、確かにわたしの目には青い靄に包まれたその球状の存在が映っていた。混乱と恐怖がわたしの思考を掻き乱す中で、それでも、その異常な光景をわたしの脳はしっかりと捉えていた。しかし、今のわたしには、それを深く考える余裕などなかった。ただ立ち尽くし、身を強ばらせているだけ。
鳴海沢は得意げな笑みを浮かべ、冷ややかに続ける。
「僕を表す色は青。深淵の青。大まかな範囲で言ったら、水を司る流儀さ。僕が願うままに、水はそのありようを変化させる。たとえばこんな風にね」
彼が手を軽く振った瞬間、それに呼応するかのように、青白い霧に包まれた球体の内部で異変が起こり始めた。わたしの目には、その変化が鮮明に映し出されていた。
球体の内部で、急激に液体のようなものが湧き上がり、まるで生き物のようにうごめいて内部を埋め尽くしていく。それは渦を巻くようにして小さく、さらに小さく凝縮していき、その動きにわたしは恐怖で目を見開き、息を飲んだ。
「……っ!」
次の瞬間、鋭い筋が球体の内部から外に向けて奔り出た。空気を切り裂く音が高く響き、その筋が狙いすましたかのように、近くにあったベンチの金属フレームに直撃する。何が起こったのか、一瞬理解できず、わたしは固まったまま見つめていた。
衝撃で金属が激しく震え、周囲に破片が飛び散る。その破片がわたしのすぐ近くをかすめ、体が反射的に後ろに引いた。心臓が鼓動を打つたびに耳の中でその音が響き渡り、今にも爆発しそうな緊張感に包まれていた。
目の前で、金属のフレームが音を立てて真っ二つに切断されていく。鋭利に切り裂かれた断面が、白い光を反射しながら無惨に晒され、その瞬間、冷たい恐怖が胸の奥底からせり上がってくるようだった。金属の断面が光を受けてきらめくたび、その鋭さが、わたしの心に突き刺さる。無力感と恐怖で、体がますます強張り、何もできない自分が、どうしようもなくもどかしかった。
この状況に、わたしはどう抗えばいいのだろうか。
「どうかな? これが
鳴海沢の冷酷な声は、まるで凍てついた刃のように、わたしの心を切り裂いていく。「
その時、ずっと黙っていた弓鶴くんが、ようやく口を開いた。まるで時間が止まっていたかのように、彼の声が静かに空気を切り裂いた。
「随分と仰々しい真似を。これはお前らの殺しの流儀に反するぞ?」
彼の言葉には、いつもの冷静さと冷徹さが漂っていたが、その背後には、鳴海沢に対する鋭い警戒心と戦慄が見え隠れしていた。
「いやいや。そこの彼女には効果的だったろう?」
鳴海沢は、わたしに冷ややかな視線を送りながら、薄く笑みを浮かべた。その笑顔はまるで毒のように、わたしの中にさらなる恐怖を植え付けていく。息が浅くなり、心臓が喉元で跳ねるように鼓動していた。
「殺すだけならもっと簡単だからね」
その言葉が、わたしの中で残響のように繰り返される。鳴海沢の声は、冷たい鋼のように正確で、容赦ない。彼の言う「簡単さ」は、わたしにとって信じがたいものでありながら、その冷徹さが嘘でないことが感じられた。
「すれ違いざまに相手の体内に、極小の場裏を滑り込ませてやるだけで事は済む。人体の重要な器官や血管をちょっと傷つけてやるだけで、人なんてすぐに死ぬんだ。気付かれる事もなく、証拠となる凶器も外傷も残さずにね。さてと、君はどんな死に方が良いかな?」
彼の言葉に、わたしの心はさらに冷たい恐怖で満たされた。全身が凍りつき、逃げたいと思っても体は言うことを聞かない。震える手をぎゅっと握りしめても、その無力なわたしでは何も変えられない。考えたくない――自分がどうなるのか、どうやってこの状況を切り抜けられるのか。そのたびに、息が詰まるようで、喉が乾いていく。
このままじゃ、わたし――殺される……
頭の中は恐怖でいっぱいになり、ただ本能的な願いだけがわたしを支配していた。
その瞬間、うつむいていた弓鶴くんが顔を上げ、一歩前に出た。彼の姿は、まるでわたしを守るために立ち上がる
「今すぐ卑怯な真似はやめて、こいつを解放しろ……」
鳴海沢は冷笑を浮かべながら、弓鶴くんに向かって言った。その声は、まるで鋭い刃物のように冷たかった。
「彼女には交渉材料になってもらっただけさ。君がおとなしく僕に従ってくれるのなら、自由にしてあげるよ。けど、従わないのなら、確実に死ぬだろうけどね」
弓鶴くんは動じることなく、一歩ずつ前に踏み出した。彼の決意が伝わってくる。わたしの心臓は早鐘のように打ち鳴り、息が詰まりそうだった。
「やめろと言っている……」
彼の声が再び響く。鳴海沢は彼の言葉に冷淡な笑みを浮かべ、落胆のため息をついた。
「返す言葉がそれって……。君が戦う力を持たないことはわかっているけれどね。どうしてもやめてほしいなら、正しいやり方というものがあるんじゃないかな? たとえば、僕の前で跪いて懇願するとか? どう?」
鳴海沢の口元に広がった愉悦の笑みが、わたしの恐怖をさらに深める。背中に流れる冷や汗が背筋を冷たくし、心臓の鼓動が耳の奥でひびくようだった。
沈黙が支配する中、圧力に押しつぶされそうな感覚に襲われる。しかし、弓鶴くんの肩がわずかに震え、彼の怒りが漂ってくる。
「関係ない奴を、巻き込むんじゃあないっ!!」
彼の叫びが雷鳴のように響き渡り、空気を震わせる。その叫びに、わたしの心も揺さぶられ、恐怖と感謝の入り混じった複雑な感情が湧き上がった。彼の怒りには、ただならぬ力と深い情熱が込められているように感じられた。
そして、その瞬間、何かが起こり始めた。
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