弓鶴くんの宿命の鎖
「まさか鳴海沢とはな……。【三家】でも筆頭格の家柄が、わざわざ俺のような才もなく【郭外】に飛ばされた小物に何の用だ?」
弓鶴くんの険しい表情が、鋭い言葉とともにわたしに深い謎を投げかけてきた。わたしにはその意味がまったく理解できず、ただその場に立ち尽くすしかなかったけれど、心の中でざわざわと不安が広がっていった。
鳴海沢は静かに言葉を返した。
「僕が出向いてきた理由はね、【
その優雅で冷静な声は、かえって重々しく響いた。まるでこの場が彼の手の中で操られているかのように感じられた。
「力の上に胡座をかき、力なき者を有無を言わさず従わせるあの連中が、提案だと? 笑わせる」
弓鶴くんの冷たい、感情を押し殺したような声に、鳴海沢は少しの間を置き、目を細めて言葉を続けた。
「端的に言うよ。君にはあるべき場所に帰ってきてもらいたいんだ。つまり、柚羽の家の当主としてね」
「断る。さっきも言ったはずだ。俺は【始まりの回廊】で【声】を聞けなかった人間だ。とうの昔にその資格は失っている。それに、当主なら姉上が……」
弓鶴くんの声が少し震えた瞬間、彼の背中に重たい影が差し込んだのを感じた。彼の言葉が途切れると、何か言いかけていることがあるのは明らかだった。その響きがわたしの心に深く引っかかった。弓鶴くんにお姉さんがいる――それだけで、彼がどんな過去を背負っているのか、そのほんの一端が垣間見えた気がした。
「その君のお姉さんが、一年ほど前に突然姿をくらましてしまったんだ。柚羽の家は代々【始まりの回廊】で言霊を伝えるという、大事なお役目を担ってきた家系だからね。彼女の喪失は大きな痛手だ。上に下に大騒ぎさ。八方手を尽くしたけれど、行方は掴めなかった。結論として、一度は外に出した君を呼び戻して家督を継がせ、柚羽の家を存続させる事にしたわけさ」
鳴海沢の声は淡々としている。わたしには話の内容はよくわからないが、その重さに思わず息を呑む。
「姉上の失踪については、叔父上から聞かされて把握している。だが、俺にはもう関係のない話だ」
「実の姉弟だというのに、ずいぶんと冷たいんだね……」
鳴海沢の声に少しの感情が混じった。
「八年前、家を追われた時に別れは済ませた。もう二度と会う事は無いと覚悟していたからな」
弓鶴くんの声が、どこか悲しげに響く。それが彼の過去の重さを物語っているようだった。
「なるほど。でもね、その彼女がいなくなってしまった今、君には柚羽の血を繋いでいくという、新たな価値が生まれたんだ」
弓鶴くんはその提案を鼻で笑い、拒絶の姿勢を崩さなかった。
「笑わせる。何が価値だ。それはお前らにとってのだろう? 俺はお飾りの当主になるつもりはない。たった一人で、人里離れた山奥に縛り付けられて、【人身御供】にされてしまった姉のようにはな」
その言葉は、静かな怒りを孕んでいた。弓鶴くんが抱えている感情が、今にも溢れ出しそうに見えた。
「君の考えは尊重するよ。でもね、君が戻らなければ、これまで脈々と受け継がれてきた柚羽の血が失われてしまうんだ。始まりの回廊で【根源の欠片】の言霊を聴けるのは直系の人間だけだからね。君によって、深淵の血に連なるたくさんの人々が救われるかもしれない」
鳴海沢の意図は何なのか、ただ弓鶴くんは唇を噛みしめ、心の中で葛藤しているようだった。その姿に目を奪われながら、わたしはこの場から逃げ出したい気持ちを必死に抑え込んでいた。何も分からないまま、この場にいることが、どれほど危険かを感じていた。
「くっくっくっ……」
弓鶴くんの冷たい笑いが、まるで氷のように空気を凍らせ、わたしの心を深い不安へと引き込んでいく。
「救われるだと? ふざけるな」
その声は低く、抑えられた怒りがじわりと滲み出ていた。
「あんな【呪い】に縛られ、それを力などと崇めたて、一切の疑いも抱かず信奉し続ける事の何が幸せだ? 貴様らは、その血塗られた力で築き上げてきた死体の山を想像した事があるのか?」
弓鶴くんの言葉が、意味もなくわたしの胸に重く響いた。彼が背負っているものの大きさ、そしてそれに対する深い憤り。わたしにはよくわからないけれど、彼は普通の男の子じゃない。深い過去と運命を抱えている……そんな気いがして、胸を締めつけた。
「その回廊とやらの選別で、力無き者を搾取の道具にする。そんなふざけた仕組みを作り上げ、どれだけの人々を虐げてきた? 俺はそんな腐れた連中の道具に成り下がるつもりはない。柚羽の血など潰えればいい」
その激しい言葉に、わたしは震えた。彼の心の中には、ただ怒りだけではなく、深い絶望と悲しみが渦巻いているように感じた。わたしは、そんな彼の心の闇に飲み込まれそうになっていた。
鳴海沢は、そんな弓鶴くんの言葉に一瞬黙り込み、深いため息をついた後、静かに答えた。
「君がどう思おうと、運命には逆らえない。一緒に来るんだ」
その言葉には、彼の冷酷なまでの確信が込められていた。運命、そんな大それた言葉を軽々しく使う鳴海沢の態度が、わたしには理解できなかった。しかし、弓鶴くんは怯むことなく、冷たい目で彼を見据え、言い放った。
「答えは同じだ。断る」
鳴海沢の表情はさらに冷たくなり、その視線にはまるで氷の刃が宿っているように見えた。声には明らかに威圧感が増し、空気が張り詰めていく。
「本当に聞き分けがないね。僕の本意ではないけれど、力づくでも従ってもらうしかない」
わたしの心臓は、強く鼓動を打った。鳴海沢の言葉が持つ重みは、明らかにただの脅しではなかった。二人の間に漂う緊張感が、まるで鋭い刃物のようにわたしの胸を切り裂く。弓鶴くんがどんなに拒絶しても、鳴海沢は決して諦めない──わたしは、その確信に恐怖を覚えた。
「やってみるがいい」
弓鶴くんの静かな声に鋭さが加わり、鳴海沢を睨みつけた。
「君がその気なら、もう仕方がないね」
鳴海沢の声には、重くのしかかる威圧感が漂い、わたしの心は恐怖と混乱に支配されていた。その瞬間、空気がピリピリと張り詰め、何かが始まる気配が濃厚に感じられた。
弓鶴くんは冷静さを保ちながらも、その目には明らかな緊張が滲んでいた。そして突然、彼はわたしに向かって鋭く声を上げた。
「いいか、今の話はお前には関係ないことだ。今すぐここから立ち去れ!そして、すべて忘れろ!!」
「え……?」
彼の言葉に、わたしは一瞬何が起こっているのか理解できず、混乱したまま立ち尽くしてしまった。
「……でなければ、死ぬぞ……」
その言葉がわたしの心に深く突き刺さった。彼の表情が真剣で、切羽詰まっていることが分かる。その瞬間、わたしの心臓は激しく跳ね、体が動かなくなった。彼が言う「死」という言葉が、現実味を帯びて迫ってきたのだ。
「わたしが死ぬ……? ええーっ!?」
顔から血の気が引き、冷たい汗が背中を伝った。怖くて、何が起こっているのか理解できず、ただただ混乱していた。
その時、弓鶴くんがパチンと指を鳴らした。瞬間、闇の中から数人の男たちが姿を現した。彼らは黒い戦闘服に厚いボディアーマーを着込み、顔を目出し帽で隠していた。まるで、影のように無音で動くその姿が、わたしの不安をさらに煽った。
「こいつを連れて、すぐにここから退避しろ、急げ!」
弓鶴くんの声は冷徹で、でも、わたしを守ろうとしていることが伝わった。男たちは彼の命令に従い、即座に動き始めた。一人がわたしの腕をしっかりと掴み、他の数名も周囲を固めるようにしてわたしを護衛する位置についた。
「えっ? でも……」
何が起こっているのか分からないまま、わたしは彼らに腕を引かれ、無理やりその場を離れようとした。しかし、その瞬間――
目の前を、何かが素早く走り抜けた。風が切れる音と共に、わたしの目に映ったのは、一瞬の閃光のような動き。それが何だったのか、まだ判断する間もないまま、状況はさらに危険なものへと変わりつつあった。
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