黄昏の来訪者


 わたしが、彼に何かを言おうとした瞬間だった。突然、背後からかけられた声に全身がぴくりと反応した。


「やあ、こんにちは」


 驚きに息を飲み、振り返ると、そこには細いメガネをかけた背の高い青年が立っていた。彼の長い黒髪は夕暮れの風にゆるやかに揺れ、その姿は、まるで絵画から抜け出したかのようだった。オレンジ色の光が彼の輪郭をやわらかく縁取り、まぶしささえ感じるほど美しく見える。身長はわたしよりもずっと高く、百八十センチ以上はあるだろう。そのスラリとした体は、まるで作り物のように完璧で、胸が少しだけきゅっと苦しくなった。


「ここって、いい場所だね」


 青年の声は穏やかで、どこか心に響くような柔らかさがあった。


 そう言いながら、彼はわたしに向かってゆっくりと歩いてきた。その微笑み――温かくて、どこか懐かしいような微笑み――が心をくすぐる。わたしは視線を逸らすことができず、ただその場に立ち尽くしてしまった。


「街の人に、ここの夕焼けがすごくきれいだって聞いてさ、どうしても見たくなって来たんだ。正解だったな、ほんとに」


 彼はそう言うと、少し肩をすくめるように笑った。


「わたしも、旅をしていて、この場所を探して……」


 わたしの声は少し震えていたけれど、彼の視線に見守られていると感じると、なんだか安心できた。


「へえ、そうなんだ。よろしくね」


 彼は、まるでわたしを誘うように柔らかく微笑んだ。その笑顔には、なんとも言えない温かさがあり、心の奥にまで浸透してくるような不思議な力があった。彼の存在が、わたしの心の境界をなめらかに越えてきているような気がして、少しだけ息苦しさを感じた。


「この情景、郷愁を誘うね。君もそう思わないかい?」


 彼の問いに、わたしは不意をつかれたように胸が高鳴った。夕焼けに照らされた風景、そして彼の言葉が、何か遠い記憶を刺激する。わたし自身も、何かを思い出しそうで、でもそれが何かはっきりしない。ぼんやりとした感覚が心を揺さぶる。


「はい……そう思います」


 口にした言葉は自然と出たもので、わたしの心が動かされているのを自覚した。彼の言葉には、単なる夕焼けの感想以上の何かが含まれているように感じられた。彼の瞳が、わたしの内側、もっと深いところにある感情を見透かしているような、そんな錯覚すら覚えた。


「思い出というのは不思議なものだね。大切なものも、忘れたいものも、ふとした瞬間に蘇ってくる。良い意味でも、悪い意味でも、過去の記憶が今の自分を形作っている……そんな感じだろう?」


 その言葉が、わたしの胸に静かに刺さり、痛みを感じた。彼の語る言葉には、わたし自身の抱えているものと響き合う何かがあった。それは、ずっと閉じ込めていた感情のひとつだったのかもしれない。


「そちらの君は、どうだい?」


 彼はわたしに微笑みながら、さらに一歩近づいてきた。その視線には、深い思索が感じられ、同時に何か意図的なものが隠されているようにも思えた。わたしは無意識に身を縮めたが、彼の優雅な態度に、妙な不安感が胸を占めた。


 その瞬間、隣にいた弓鶴くんが、目を鋭く細めて青年を睨んだ。


「貴様、一体何者だ?」


 隣に立つ弓鶴くんの声は、鋭く冷たかった。彼と出会ってからまだ間もないけれど、こんなにも緊張した様子を見せる彼に、わたしは不安を感じた。


 青年は、まるで驚くこともなく、淡々とした笑みを浮かべて返事をする。


「僕かい? ただの観光客だよ」


 だが、弓鶴くんはそれを聞いてもなお警戒を解かない。彼の視線は鋭く、眉間には深いシワが刻まれていた。その目には、明らかに何かを見抜こうとする鋭い意志が宿っている。


「観光客にしては、動きが洗練されすぎている。足の運び、重心の掛け方、呼吸の仕方、どれもが妙だ。時代がかった所作が滲み出ている。年齢と着衣からして、あまりに不自然だ」


 その言葉を聞いて、わたしは思わず弓鶴くんを見つめた。彼がただ表面的な言動ではなく、その青年の細かな動作や仕草までも見抜いていることが分かった。普通の人なら気づきもしないだろう。


 青年はわずかに驚いたように目を細め、笑みを浮かべながらも唇を歪めた。


「君は鋭いね……。でも僕はただ、君と話をしたいだけなんだよ。柚羽弓鶴ゆずは ゆづるくん」


 その瞬間、わたしの胸は大きく跳ねた。彼が弓鶴くんの名前を知っていることに、驚愕が走る。わたしも、弓鶴くんも初対面のはずなのに、どうして――?


 弓鶴くんの表情には一瞬だけ動揺が走ったが、すぐに冷徹な表情を取り戻した。その瞳の奥には、わずかな恐怖の色が浮かんでいたのを見逃さなかった。わたしはますます混乱し、ただその場に立ち尽くすことしかできなかった。


「何故、俺の名前を知っている?」


 弓鶴くんの低い声に、わたしの胸が強く締め付けられた。いつもの無表情とは違う、鋭い目つきに驚きと戸惑いが混じる。わたしには見えない何かが動き出すような予感がした。


「君には、もうその意味はわかっているよね?」


 青年の落ち着いた口調が場に冷たく響く。弓鶴くんはわたしを指さし、鋭く言い放った。


「どうしても話をしたいというなら、まず人払いをしてもらおうか。こいつは俺とは何の関係もない」


 その瞬間、心臓が跳ねた。何の関係もない? どうしてそんな冷たく突き放すような言葉を、と思うと、胸の奥で痛みが広がっていった。彼が何を考えているのか、まったくわからない。どうしてこんなことを言うのだろう?


 青年は微笑んだまま、優しい声で返す。


「それはだめだね」


 その声に、わたしの心はさらにざわめいた。彼から見える優しさが、どこか底知れぬ不気味さを含んでいるように感じられた。


「貴様……」


 弓鶴くんは怒りを抑えきれないように、手をわずかに震わせながら青年を睨みつけた。その眼差しには、これまで見たことのない強い感情が込められていた。決して揺るがないと思っていた彼が、こんなに感情を露わにしている。わたしはその様子に不安が募るばかりだった。


「彼女にはここに留まってもらった方が何かと都合がいいからさ。わかるよね? この間合い、僕なら“どうとでもできる”ってこと」


 青年の言葉がわたしに向けられ、恐怖が背筋を走った。わたしの存在が、ただの「都合のいいもの」として扱われていることに気づくと、胸が押しつぶされそうなほどの不安がこみ上げてきた。その不気味な笑顔に、体が凍りつくような寒気を感じた。


「そういうわけだから、君にはそこで話を聞いていてもらえないかな?」


 青年の言葉は穏やかでありながら、どこか脅しのような冷たさがあった。それに対して、わたしは声を震わせながら、勇気を振り絞って反論した。


「どういう意味なんです? わたしにはあなたの言っていることがさっぱりわかりません。関係のない話だったらお邪魔でしょうから、帰らせてもらいます」


 そう言いながら、体の奥に渦巻く恐怖を押し殺そうと必死だった。でも、心臓は早鐘を打ち続け、全身が震えているのが自分でもわかる。


 青年は軽く肩をすくめた。


「別にいいけれど、どうなっても知らないよ?」


 その言葉に、さらに不安が押し寄せた。どうなるって、一体何を意味しているの? 彼の言葉の裏に潜む何かがわからず、息苦しさを覚える。


「どうなるっていうんですか?」


 わたしの声は震えていた。


「さあ、それはそこの彼が一番良くわかっていると思うけれどね」


 その言葉には冷ややかで決定的な響きがあり、わたしは思わず弓鶴くんを見つめた。彼の表情は、怒りから苦悩へと変わっていた。わたしは、彼の背負っているものの重さに気づき始め、彼の心の中にある暗闇がほんの一瞬、垣間見えた気がした。それが何かはわからないけれど、確実に彼を追い詰めているものだと感じた。


「さてと───」


 青年は冷静に弓鶴くんに向き直り、話し始めた。その落ち着いた声が、わたしの心をさらにかき乱していく。


「───まずは自己紹介をしておこうか。僕の名は洸人。鳴海沢 洸人なるみざわ ひろと。よろしくね、弓鶴くん」


 彼の言葉はまるで静かな湖面に投げ込まれた石のようだった。心にさざ波を広げ、わたしはさらに混乱した。これまでの沈黙が、彼の声とともに不気味な緊張感へと変わっていく。


 わたしの隣で、弓鶴くんの表情がさらに険しくなった。その冷ややかな瞳が、鳴海沢に向けられる。


「やはり、貴様、【深淵しんえん】の者だったか……」


 その言葉が放たれた瞬間、わたしは息を呑んだ。何を意味するのかまったく理解できない。でも、わたしの胸の中で、何かが大きく揺れ動いた。


 しん、えん……それってなんだろう……?


 心の中で疑問が渦巻く。けれど、わたしの思考は焦りと恐怖でいっぱいだった。何も理解できない状況に、ただ無力感が広がっていく。


 弓鶴くんが口にしたその謎めいた言葉の意味がわからず、心臓の鼓動が早まっていた。鳴海沢という男が何者なのか、そして深淵とは一体何なのか。わからないことが多すぎて、わたしは不安と恐れで胸がいっぱいになった。


 このままここにいては危険だ。わたしはどうにかして、この場を離れたいと必死になったが、足がすくんで動けない。全身が張り詰めて、逃げたいという思いが体を縛るように押し寄せてくる。それでも、ここから逃げ出せるすべは見つからない。

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