夢の情景と不思議な男の子

「へえーっ……」


 駅を出た瞬間、目の前に広がる風景に思わず息を呑んだ。駅ビルから続く商店街が、どこか懐かしくて、それでいて初めて見るような新鮮さもあって、まるで時間の流れが不思議に混ざり合った夢の中にいるみたい。


「これで、よしっと」


 ロッカーにキャリーケースを預けて、背中のディバッグを軽く整える。それから、手早くタブレットを取り出して地図を確認。目的地はあの高台にあるんだって、見上げた先には小さく見える神社の鳥居。何度も見た写真の景色だけど、実際にこうして立ってみるとまた違う。


 賑やかな商店街を抜けると、次第に静かな住宅街に変わっていく。木造の家々が並んでいて、どの家の庭にも色とりどりの花が咲き誇っている。こんな場所があるんだなあ、なんて思いながら、わたしはちょっと急な坂道に足を踏み入れた。


 坂道を登るたびに、微かに汗ばんでいくけど、風が心地いい。ふわっと髪に触れる風に、少しだけ心が軽くなる気がする。


 息を整えながら急な坂道をひたすら登り続ける。ふぅ、と一息ついた頃、ふと視界が開けて、眼下には広がる街並みとその向こうに広がる海が見えた。キラキラと光を反射する海面が、心の中の重たいものを少しずつ溶かしていくようで、なんだか気持ちが軽くなる。


 ようやく坂を登り切ると、小さな石の鳥居が目に入った。下調べした通り、ここが今日の目的地、石御台いしみだい公園だ。ようやくたどり着いたんだ……と、期待を胸に、鳥居をくぐり石段を上る。


 公園の中に一歩足を踏み入れると、周囲の木々が風に揺れる音や、遠くから聞こえる鳥のさえずりが心地よい。歩くたびに、木々の隙間から広がる景色がさらに鮮やかに感じられて、心が静かに癒されていく。


「ここで合ってる、はず……」


 小声で確認するように呟きながら、少し緊張して足を速める。胸の奥では期待と不安がぐるぐると入り混じっているけれど、それでも何かに引き寄せられるように足が前に進んでいく。


 やがて、木々の間から視界がぱっと開けた。その先に見えたのは、白い柵に囲まれた展望台。展望台の先には、広大な海が果てしなく広がっていて、左手の岬の先には、夢の中で何度も見た白い灯台が、確かにそこに立っている。


 夕焼けが空と海を紅と紫に染め上げ、まるで夢の中にいるみたい。わたしは、その瞬間、何も言葉が出なかった。


 ただ、目の前に広がる光景をじっと見つめるだけだった。


 頬を涙が静かに伝い落ちる。


「本当にあったんだ……。夢で見た、あの景色……」


 その言葉は、胸の奥から絞り出されるようで、私の中で現実と夢の境界がゆっくりと溶け合っていくのを感じる。これまでずっと夢だと思っていたあの風景が、今こうして目の前に広がっている。すべてが現実となった瞬間、夢が意味するものが少しずつ心の中に刻み込まれていく。

 

 手のひらで頬の涙をぬぐいながら、この場所に来るべきだったんだと、ふと気づいた。この場所が、わたしにとってどれほど大切な意味を持っているのかを改めて実感する。心の奥底に眠っていた感情が、この瞬間、少しずつ形になっていくのがわかる。


 静かに息を吐き出しながら、わたしは展望台のベンチに腰をおろした。夕焼けが空を彩り、海面が金色に輝いている。風が頬をなでるように通り抜け、木々がそよぎ、さざ波が岸辺に優しく打ち寄せる音が、心の中に染み込んでいく。


「やっと……見つけた……」


 その言葉は、自分の中に溢れる感情を噛み締めるように心の中で呟く。これから先、何が待っているかはまだわからない。だけど、今この瞬間、自分の中で一つの区切りがついた。まるで何かが変わり始めている、そんな予感がしていた。


 時が経つにつれて、空の色が次第に濃く染まり、夕日がゆっくりと水平線の向こうへと沈んでいく。わたしは、その光景をまぶたに焼き付けるように、ただ静かに見つめ続けた。


 しばらくの間、わたしの心は目に映る風景に埋没していたけれど、記念写真くらい撮っておかなきゃ、と思い、ベンチから立ち上がった。


 その時、わたしはふと右の方に人の気配を感じて、無意識に視線を向けた。そこには、展望台の手すりに肘を掛けて、沈みゆく夕日を静かに見つめる一人の男の子が立っていた。その姿に、わたしは瞬間的に目を奪われた。


 身長は百七十センチほどで、わたしより少し低いくらい。華奢な身体つきが、夕日に照らされた細い影を落とし、風に揺れる柔らかな黒髪がその頬を撫でている。彼の透き通るような瞳は、まるで深い泉の底を覗き込むように澄んでいて、そこにはどこか儚げな光が宿っていた。長いまつげがその瞳を縁取り、瞬きするたびに繊細な影が頬に落ちては消える。その唇は小さく、まるで花びらがそっと揺れているかのようで、わたしの心に静かな波紋を広げた。


 まるで『神がかった美しさ』そのものだった。


 わたしはその現実離れした美しさに見とれ、思わず息を呑んだ。心臓が一瞬跳ね上がり、理由もわからず胸がドキドキと高鳴る。これもまた夢の続き?


「うそでしょ……?こんなにきれいな男の子っているんだ……」


 心の中で呟き、思考が追いつかないまま彼を見つめ続けていた。時が止まったように感じられるその瞬間、男の子がゆっくりと振り向き、わたしの目を真っ直ぐに見つめ返した。


 その瞳がわたしを捉える瞬間、時間がさらに遅くなった気がした。何か特別な瞬間が訪れたような、不思議な感覚。心臓がドキドキと高鳴り、息をのむ。彼の視線が心の奥深くに潜り込んでくるようで、思わず目をそらしたくなった。


「こんにちは」


 緊張しながらそう声をかけると、男の子の寂しげだった目が、突然獰猛な獣のように変わった。その冷たい視線にわたしはドキッとした。不安が胸を締め付ける中、わたしは笑顔を崩さないように努めた。こういう瞬間、どう振る舞えばいいのかわからなくなる。


「そうだが、何か用か?」


 彼の声はやや高めで、その美しい響きに反して、口調は重く、暗かった。まるで触れると凍りついてしまいそうな、何か警戒されているような感触がした。いきなり嫌われたくもない、でもどうすればいいのかわからない。どうにかこの緊張を和らげたくて、言葉を探す。


「わたし、観光で来たんだけど、地元の人しか知らないような、他にもおすすめの場所とかあるかな?」


 彼はしばらく考え込んだ後、視線をわずかに動かして答えた。「あるにはあるが、ここが一番だ」


 その言葉には、わたしもどこか納得できるものがあった。風が頬を優しく撫でて、沈黙が二人の間に流れる。少しの間があった後、彼は続けた。


「ここの良さは、来た人にしかわかるまい。」


 彼の言葉を受け止めると、心の奥に響くものがあった。思わず、心の中で頷いていた。


「本当にそうだね。ここまで来た甲斐があったよ。」


 その瞬間、彼の表情がわずかに和らぎ、どこか柔らかさが見えた。なんだかほっとした。彼が少しずつ心を開いてくれているような気がして。


「そうか……」


 その一言が、彼の内面の一端を垣間見せた気がした。わたしはその反応に安堵し、思わず言葉を続ける。


「あなたはこの場所で何をしているの?」


 彼は少し考えてから、口を開いた。


「何って、ここに来て、景色を見ながら考えごとをするくらいだな」


 その言葉には、彼の内面の深い部分が垣間見えたような気がした。わたしもまた、同じような感覚を持っていたので、共鳴するように微笑みながら答えた。


「それ、わかる気がする。わたしもここに来て、いろいろ考えちゃった。これまでのこととか、これから先のこととか。実はね、ちょっと前に大変なことがあって、それでこの景色を探していたんだ」


「この景色を?」


 彼の問いかけに、わたしは驚きと喜びを感じながら答えた。


「うん、そうだよ。何度も何度も夢に出てきた景色があって、その場所を探して旅をしていたの。ここがそれととてもよく似ていたから、とうとう見つけたんだって、すごく嬉しかったの」


 その瞬間、彼は冷ややかに笑い、言い放った。


「夢の景色だと? ふん、くだらない……」


「えっ……?」


 その言葉にわたしは驚き、さらにおずおずと訊ねた。


「どうしてそんなことを言うの?」


「馬鹿げているからだ。実にくだらない」


 彼の反応とその冷酷な言葉に、心の中で何かが破裂するような感覚を覚えた。そして、心の奥底からふつふつと怒りが湧き上がってきた。


「初対面の相手に、そんな言い方ってひどくない?」


 口から出た言葉は、わたしの不安や戸惑いを消すかのように響いた。けれど、彼の表情は変わらない。冷たい瞳がこちらを見据えたまま、まるで自分を理解しようともしないかのようだった。


「夢というものは記憶が整理される過程で生じるもので、過去の記憶の断片が再構成されたものに過ぎない。そんなことも知らないのか?」


 彼の言葉はまるで冷たい刃のようで、わたしの心に深く突き刺さった。


「知るわけないでしょ」


 彼は呆れた顔で言った。その表情がさらにわたしの心をえぐる。


「無知にも程がある。お前が見た夢の景色とは、過去に体験した記憶に基づいているはずだ。それを表面上忘れているだけなんじゃないのか?」


「そんなことないって。昔の写真を見ても両親にたずねても、手がかりなんて見つからなかったんだから」


「いいや、きっと思い違いをしているだけだ。だいたい、夢などというくだらない理由で旅をするなど、俺には理解できん。お前は夢と現実の区別がついていないんじゃないか?」


 その言葉に、わたしは心の奥で何かが音を立てて崩れるような感覚を覚えた。彼の冷たい態度は、まるで深い氷のように感じられ、心が痛むのを感じた。心の中で何かがしぼんでいく、温かな希望が霧散していくのを感じる。わたしはただ、夢を求めてここに来たのに。


 わたしは心の中で不満をぶつけていた。


「ひどい……そこまで言う? ちょっと顔がいいからって、性格最悪じゃないの!」


 そんな具合で、心の中は憤りでいっぱいだった。どうして彼は、相手の考えを頭ごなしに否定し、こんなにも冷たい言葉を投げつけるのだろうか。彼の無神経な態度をとる姿に、わたしの怒りはさらに募る。彼の冷淡さは、わたしの心の奥を無造作にかき乱していたのだ。


「ああ、そう。理解できないんだったら、せめて否定しないでくれないかな? わたしはずっと真剣に考えて、考えて、探していたんだから」


 感情が溢れ出し、わたしは声を震わせながら訴えた。しかし、彼は海の方に視線を移し、まるで私の言葉が耳に入っていないかのように無関心だった。


「五月蝿い奴だ。お前にとっては大切なことかもしれないが、俺には何の関係もない。理解する理由も共感する理由も見当たらない」


 その言葉を聞いた瞬間、わたしは目の前が暗くなるような感覚に襲われた。心が冷え込み、失望感が胸に重くのしかかった。彼の指摘も無視できない。価値観が違うだけで、こんなにも感情がすれ違ってしまうのだと気づかされた。


「わたし、何を期待してたんだろう……」


 心に浮かぶ悔しさと虚しさが、わたしをさらに打ちひしがせた。どうして自分はこんなにも浮かれていたのだろうと、急に恥ずかしくなった。彼に理解してもらえると思っていた自分が滑稽に思えて、どこか自嘲的な気持ちになった。


「ごめん……ちょっと言い過ぎたみたい。それじゃ、帰るね」

 

 言葉を絞り出し、肩を落として背を向けた。歩き始めると、重いため息が自然と漏れてしまった。まるで心の奥に詰まった感情が、言葉として現れてしまったかのようだった。


「はぁ……」


 深い溜め息が漏れた。早くこの場所を離れたくて仕方がなかったけれど、どこか納得できない気持ちが心に残り、何度も振り返ってしまう自分がいた。彼が立っているその姿が、背中に重くのしかかっている。


 もうすぐ日没の時間。彼は変わらず海の側に立ち、沈みゆく夕日を見つめていた。その表情はどこか寂しげだった。彼の瞳に映る夕日が、まるで彼の心の奥の寂しさを映し出しているように感じられた。


「もう忘れよう……」


 心の中でそう呟き、彼のことを考えないようにしようと決めた。けれど、胸の奥にモヤモヤとした感情が残り、簡単には収まらなかった。彼の冷たい言葉が、まだ耳にこびりついている。


「ああ、やめだ、やめ!」


 そう心の中で自分に言い聞かせ、振り払うように再び歩き出した。背中に残る微かな痛みを感じながら、わたしは夕日が沈む空を見上げ、どこか空虚な気持ちを抱えて歩き続けた。


 色とりどりの雲が変わっていくのを見つめると、その美しささえも、心の中のもやもやを一瞬だけ忘れさせてくれる気がしたが、すぐに彼のことを思い浮かべてしまう。


「バカかわたしは……」


 自分の気持ちを振り切ることはできず、少しずつ日が沈むにつれ、わたしの心もまた、静かに暗くなっていった。



石与瀬市

 舞台となる架空の都市。かつては漁業で栄えた土地。豊かな海の恵みを求めて多くの漁船が集まり、活気があふれる市場や港がにぎわいを見せていた。しかし、時代の流れとともに漁業は衰退し、今の港は材木の集積場や製紙工場、港湾関係の倉庫で埋め尽くされている。

 最近では山あいを切り開いた土地に、先進工業団地が整備されるなどして人口も増加していて、地方都市の割には駅前や幹線道路沿いは意外と盛っている様子。

 また、街の北側に位置する海岸線一帯は、風光明媚な景勝地としても知られていて、ここを訪れる観光客も少なくない。

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