流れる時間と心の波

 翌朝、わたしは石与瀬の観光地を巡ることに決めた。目的地の探索が一段落し、スケジュールに余裕ができたからだ。そう、予定が詰まっていないのは久しぶりで、心のどこかで解放感を感じていた。あの男の子との出会いが、心の隅でモヤモヤと渦巻いているのに、今は少しでもその感情から逃げてみたかったのだ。


 昨夜は、いろいろな考えが浮かんでは消え、もやもやするばかりで、なかなか寝付けなかった。あの美しい男の子の寂しげな表情や、心の奥底から漏れ出てくるような冷たい言葉が、まるでわたしの心にひっかかる小石のように、時折わたしの胸を締めつけていた。


 清々しい朝の光が街を包み込み、鳥たちのさえずりが心地よく響く中、わたしはバスに乗り込んだ。窓の外を流れる景色は、どこか遠い世界のように見えた。明るい光に照らされて、草花が元気に揺れる姿を見ると、どうしても心の中にある暗い影が浮かび上がってくる。そんなことを考えながら、わたしは静かに息を吐いた。


「今日は、素敵なことがあるかもしれない」


 そう自分に言い聞かせてみる。けれど、その言葉が心の奥でどこまで本当なのか、自信が持てない。小さな期待と不安が交錯する中、景色は流れていく。何か特別なことが起こる気がしてならない。でも、その何かがわたしにはわからない。


 この先、どんなことが待ち受けているのだろう。わたしの心は、未来に向かって少しずつ動き出す。それでも、あの男の子のことが、心のどこかに残っているのは確かだ。


 バスが町並みを抜け、海岸線に差し掛かると、青い空と海が一体となった壮大な景色が広がっていた。心が奪われるような美しさに、思わずため息が漏れた。


 岬に到着すると、目の前に白く高くそびえる灯台が現れた。青空に映え、真っ白な壁面が太陽の光を反射して眩しく輝いていた。まるで、日々の悩みを洗い流すように、光が心の中を浄化してくれるかのよう。


 灯台の前に立ち、その威風堂々とした姿を見上げると、自然と期待感が胸に広がり、思わず壁面に抱きついてしまった。コンクリートのひんやりとした感触が、どこか心を落ち着けるような心地よさをもたらした。


 その瞬間、わたしは自分の心の奥底に潜む不安や疑念が、少しずつ和らいでいくのを感じた。これからどんな新しい発見が待っているのだろう。らせん階段を一段一段登ると、吹き付ける海風が心地よく髪を揺らし、潮の香りが風に乗って漂ってきた。自然の美しさを全身で感じる瞬間だった。


 灯台の頂上にたどり着くと、果てしなく広がる青い海がキラキラと輝き、その景色がわたしの心をしっかりとつかんで離さなかった。波の音が耳に心地よく響き、まるで海がわたしに語りかけているかのよう。無限に広がる海の向こうに、どんな未来が待っているのだろう。期待と不安が交錯する。


 目を閉じて深呼吸をすると、胸に溜まっていた何かが、海風に乗って少しずつ消えていくような気がした。心が穏やかになり、日々の喧騒から解放されたような感覚に包まれた。そう、ここにいるときだけは、すべての重荷を下ろして、自由になれる気がした。


 そして、その瞬間に、心の奥底で誰かに会いたい気持ちが芽生えた。真っ先に浮かんだのがあの男の子の姿で、わたしは驚いてしまった。


「あれ、なんでだろ……?」


 自分でも理由がわからず、ただ彼の存在が心にぽっかりと穴を開けているような感覚がした。灯台から見渡す青い海と空のコントラストが、彼と過ごした短い時間と重なり、ますます彼のことが気になってしまっていた。そんな自分がどうにも不思議だった。


 灯台からの眺望を楽しんだ後、わたしは再びバスに乗り、海岸線に沿って進んだ。心の中で彼の存在が揺らぎ、どこか心地よい緊張感が漂っていた。やがて、バスは岬の北に位置する「銀華崎シーパラダイス」に到着した。


 シーパラダイスは、周辺海域に生息する魚や生物を間近で観察できる水族館と、アザラシやアシカ、イルカの展示を中心としたエリアで構成されており、特にアシカとイルカのショーが人気を博していた。賑やかな雰囲気が広がる中、わたしの心の中でも何かが高鳴り始めていた。


 わたしはワクワクしながらショーの会場に向かった。期待が胸の中で高まり、足取りも軽くなっていく。アシカたちが軽快にボールを投げ合ったり、飼育員と漫才のような滑稽なやりとりをしていて、笑いが絶えない。観客の笑い声が波のように押し寄せて、わたしの心もその波に乗っていた。


 そして、イルカたちが華麗に跳ね上がり、見事なチームワークでパフォーマンスを繰り広げると、観客のボルテージが最高潮に達する。まるで空気が振動しているかのように、熱気が会場を包み込んでいた。跳ね上げられた水しぶきが服にかかってしまうアクシデントもあったけれど、そんなことは全く気にならない。心の底から楽しむことができた。


 ショーを堪能した後、わたしはお腹が空いていると気づき、施設内のレストランへ足を運んだ。店員さんにおすすめを訊ねてみると、海鮮、穴子天ぷら、ウニとイクラとホタテの三種類のミニ丼が乗った豪華な御膳を勧められた。


 「それっ、それにします!」と、まるで子供のような期待を胸に抱きながら、お願いした。運ばれてきた料理を見て、わたしはその鮮やかな色彩に目を見張った。刺し身は艶やかで、見るからに新鮮だ。口に運ぶと、滑らかな舌触りと共に甘みが広がり、思わず笑みがこぼれた。


 「おいしい……。これは大勝利!」と心の中で叫びながら、食事を楽しんだ。


 料理を味わいながら、心も体も満たされていくのを感じた。どれもこれも、味覚を刺激する一品で、まるで自分自身が海の中にいるかのような錯覚を覚えた。食事が進むにつれ、笑顔が自然に浮かんでくる。


 食事を終えた後、わたしは再びバスに乗り、石与瀬駅へと向かった。夕方十八時ちょうどの列車に乗ってこの地を去る予定でいた。バスに揺られながら、ただ景色を眺めていたが、心の中はどこかざわざわとしていた。


 ふとした瞬間、昨日の出来事が頭をよぎった。脳裏には昨日の彼の姿と声が鮮烈に浮かび上がっていた。思い出すたびに、心がざわめく。


 「なんで気になるのかな? 昨日、あんなに酷いことを言われたのに……」と、思わず呟いた。


 印象的で美しすぎる顔立ちと、その瞳の奥に宿る冷たい何か。その瞬間の彼の表情が、まるで海の底に沈んでいるように深く、どうにも処理できない感情に戸惑っていた。振り払おうとしても、心の隅でくすぶっている思いは容易には消えなかった。


 彼との出会いが、心の中で何かを掻き立てているのを感じる。


「どうして、気になるんだろう?」


 心の中で問いかけても、答えは出てこない。思い出が過去のものであることを思い知りながらも、ただその余韻に浸りたい自分がいた。バスの窓の景色は変わり続け、流れる雲や、緑がかった山々が、心の奥に静かな波紋を広げていく。


 駅に降り立ったわたしの足は、なぜか石御台公園へと向かっていた。心のどこかで、彼に会えるかもしれないという淡い期待を抱いている自分がいた。


「何を期待しているの? あんな人のことなんて、別にどうだっていいじゃない。もし、また会ったとしても、いったい何を話せばいいっていうの?」


 自分に問いかけながらも、足は自然とその方向に進んでいた。


 心には得体のしれない何かが渦巻いていた。昨日の彼の冷たい言葉が、まるで風に乗って戻ってくるかのように、心をざわつかせる。わたしは自分の中の不可思議な感情と向き合おうとしていた。


 公園に辿り着くと、視線は無意識に彼の姿を求めてさまよっていた。木漏れ日の下、ベンチに腰掛ける人々や、楽しそうに話す家族連れも、わたしの目には入っていなかった。ただ、彼だけを探し続けていた。


 やがて、歩き疲れたわたしは展望台のベンチに腰掛け、それからずっと海を眺め続けた。夕方の柔らかな光が海面をオレンジ色に染め、その輝きが心に染み込んでくる。何も考えたくない、ただこの美しさに浸りたいと思う一方で、彼のことが頭から離れなかった。


「どうしてこんなに気になるのかな……」


 思考が彼のことで占められ、まるで頭の中が迷路になったようだった。心のどこかで「もう忘れようよ」と叫びながらも、その声は虚しく響いていた。


 どれほど時間が過ぎただろう。日は傾き、空が紅く色づき始める。周囲の人の気配も少なくなり、夕暮れ時が近づいていた。心の中のもやもやも少しずつ薄れていくのかと思えば、逆に彼の存在が強くなるばかりだった。


 空が深い色に染まる中、わたしはただ静かに目の前の景色を見つめ、心の葛藤を味わっていた。彼に会えたら、何を言おうか。どんな表情をしているのか、今どんなことを考えているのか。そんなことを想像するだけで、胸が締め付けられるような思いが生まれていた。


 これが恋なのか、ただの気の迷いなのか、自分でもわからないまま、夕焼けの中で揺れる思いを抱えていた。


 人気のない静かな空間で、わたしは胸の中に広がる寂しさを感じながら、ただ夕陽に染まる海を見つめ続けた。海はオレンジ色に輝き、波が寄せては返すたびに、心の奥底に沈んだ感情が揺れ動く。


 昨日の出来事が鮮明に思い出され、彼の冷たい視線が心に刺さるようだった。なぜあんなことを言われたのか、わたしはまで理解できずにいる。


 思わずため息をつき、目を閉じる。優しい風が頬を撫で、少しだけ心が和らぐ。海の音が心地よく響き、少しずつ気持ちが穏やかになっていく。しかし、彼のことが頭から離れず、心の中に小さな渦を巻いている。


 何度自分に問いかけても、答えは見つからない。彼のことを考えるたびに胸が苦しくなるのに、その苦しさの中に何か心惹かれるものを感じている自分がいる。


 目の前の海が赤く染まり、時が流れていくのを感じながら、わたしは再び彼の姿を思い浮かべていた。すると、ふと視線を感じた。周囲には誰もいないはずなのに、背中に何かが触れるような気配がする。振り向く勇気が持てず、そのまま海を見つめ続ける。心の奥で何かが動き出そうとしているのを感じていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る