深淵の黒鶴~わたしたちはふたつでひとつのツバサなのだから
ひさちぃ
第一章
わたしがどうして旅してるのかって?
ディーゼルエンジンの振動が、まるで優しい手で背中を撫でるみたい。レールのつなぎ目を越えるたびに、ドンッと心地よいリズムが体に響いてくる。たまに大きな揺れが来ると、思わず体が横に揺さぶられて、ちょっとしたドキドキ感が味わえる。
乗っているのは二両編成の小さな列車。車掌さんはいなくて、自動ドアもないから、降りる時は自分でボタンを押す仕組み。ちょっと不便だけど、これがなんだか新鮮で、わたしには特別な体験みたいに感じられる。
都会で育ったわたしにとって、このローカル列車の旅はまるで異世界に飛び込んだみたい。心の奥が少し弾むような興奮を覚えながら、ベンチシートの中央に座って、車窓から流れる景色を楽しんでいる。外の風景がすごく美しくて、思わずため息が漏れる。こんな瞬間、少しでも素敵なことが起きるんじゃないかって期待しちゃう。
◇◇◇
「さてと……」
わたしは膝の上に抱えたディバッグの中から、タブレットを取り出す。画面をタップすると、大きな地図が現れた。小さな写真アイコンがいくつも浮かんでいて、それぞれに注釈がついているのが見えて、これから訪れる予定の場所が示されている。
「うん、もうすぐ石与瀬だね」
あと三十分ほどで目的地に着く。ドキドキしながら確認する。今日はどんな景色が待っているのかな、どんな思い出が作れるのかな、そんな期待が心を弾ませる。
俯いてタブレットを見つめていると、わたしの右手が無意識に動いて、ショートカットの前髪をかき上げていた。その瞬間、指先が躊躇いがちに左の額に触れた。触れたくないのに、どうしても気になってしまう。わたしの癖のようなものだった。
ため息が漏れる。左手をじっと見つめる。指先は微かに震えていて、力もあまり入らない。
こんな自分が、どうして一人で旅をしているのか。それは、ある出来事が発端になっている。心の奥で思い出すのは、あの時の痛み。逃げたくて、忘れたくて、でも忘れられない。それがあったから、今のわたしがいる。
一年前、中学の卒業を間近に控えたあの日、突然、わたしは雷に打たれた。あの時の恐怖と痛みは、今でも脳裏に焼き付いている。言葉にできないほどの痛みと、でもその直後に何かに包まれるような不思議な感覚。そこで、意識を失った。
目を覚ました時、私はベッドの上で身体中にたくさんの管が繋がれていた。両親が面会に来て、自分が集中治療室にいて、死の淵をさまよっていたことを知った。あの時は一ヶ月近く昏睡状態にあったらしい。
落雷のショックで心肺停止になって、即死の危険もあったと聞いた。でも、現場が職員室の近くだったのが幸いだったそうだ。駆けつけた先生がすぐに蘇生措置をしてくれたおかげで、私は奇跡的に生き延びることができた。
不思議なことに、身体には雷が直撃したのに、左頭部の小さな傷以外は目立った外傷はなくて、特有の電撃傷や火傷の跡もなかった。担当のお医者さんは首を傾げていたけれど、私自身、何が起きたのか分からなかった。
一般病棟に移った後、ダメージが思ったよりも大きいことを実感した。最初は身体をほとんど動かせず、物を呑み込むことさえ難しかった。それから、長いリハビリ生活が始まった。
半年以上が経って、退院の日が来たけれど、事故の記憶は私の心に深い傷を残していた。身体には後遺症があって、左肩から先にはあまり力が入らず、握力もほとんどない。人差し指と中指に至ってはまったく動かせなくなっていた。
一番辛かったのは、幼い頃から好きだった自転車のスポーツ、※バイクトライアルを諦めざるを得なくなったこと。
毎日学校から帰ると、父さんが庭に作ってくれた人工セクションで練習するのが日課だった。課題を何度も試行錯誤しながらクリアする達成感は、何とも言えない楽しさで、私はそれに病みつきになっていった。週末には家族で各地に遠征して、仲間たちと技術を高め合う喜びも知った。あの時間、私は本当に幸せだった。
でも、今はどうだろう。左手はブレーキレバーすら満足に握れない。現実は残酷で、今まで積み上げてきた自分が、まるで死んでしまったかのように感じる。練習することができなくなって、自分の一部が失われてしまったような気がする。思い出すたびに、あの楽しかった記憶の苦しみが私を襲う。
列車の揺れに身を委ねながら、私はこれからのことを考えた。もう一度、何かに情熱を燃やせる日が来るのだろうか。このまま無気力に過ごすのは嫌だし、心のどこかで燃えるような何かを見つけたい。そう願いながらも、未来がどんな形で私を待っているのか、心配と期待が交錯している。
わたしには、好きだったスポーツ以外には何も無い、ただの十六歳の女の子だ。特別な才能もなければ、誰かに誇れるような得意技もない。がさつだし、勉強も全然ダメ。毎日教科書を開いてみても、頭の中は空っぽで、なかなか集中できない。
だけど、食べることは好きだし、料理も好き。台所で何かを作っていると、まるで自分が別の誰かになれるような気がする。でも、現実はそんなに甘くない。結局、わたしが作るのはただの普通の食事で、誰かを感動させるような特別な味にはまだ遠い。いつか、誰かに「おいしい」って言ってもらえるものを作れるようになりたいけど、今の自分にはそんな未来が想像できない。
見た目だってそんなに可愛いわけじゃない。友達はみんな華やかで、小さくて、おしゃれだって似合うけれど、わたしは中途半端に背が高くて、百七十三センチもある。昔から男子に「デカ女」ってからかわれて、そのたびに心がちくりと痛んだ。わたしだって、特別な誰かに思われてみたいけど、実際、誰とも付き合ったことなんてないし、彼らにとってわたしはただの風景の一部みたいなものなんだろう。目立つけれど、気づかれることさえない。誰かがふと振り返って、わたしを見つけてくれたらいいのにって思うけど、そんなことは一度もない。
心の奥で、どこかに「わたしらしい」ものがあるんじゃないかって探しているけれど、まだ見つけられない。もしかしたら、そんなものは存在しないのかもしれない、なんて思う自分がいる。
ふと車窓の外に目をやると、遠くに広がる海がキラキラと輝いていた。
もしも、【あの場所】に出会えたなら……何かが変わるのだろうか?わたしはそんな期待に胸がドキドキするのを感じていた。たとえ、それがほんの小さな変化であったとしても、今のわたしにはそれがどれほど大切なことか、計り知れないのだから。
あの場所──それは事故以来、頻繁に夢に現れた情景だった。色彩が鮮やかで、あまりにもリアルなその夢は、脳裏に強く焼き付いていた。あの夢を見るたびに、現実の喧騒から逃げ出して、心の底から安らげる瞬間が訪れる気がした。
夕暮れの光が全てを包み込み、空と海が紅と紫の色合いで溶け合っていた。まるで、夢の中にいるかのような感覚がわたしを包み込み、現実の境界がぼんやりと消え去っていく。この色彩は、どこか懐かしく、心の奥を優しく撫でるような暖かさがあった。岬の先に立つ白い灯台は、柔らかく霞んでいて、まるで遠い記憶の中の風景が薄れたように浮かび上がっていた。灯台の周りには、淡い霧が漂い、時間が止まったかのような静けさが広がっていた。
そして、わたしの視界にふと入ってきたのは、ベンチに座っている一人の少女の姿だった。彼女が着ている白いワンピースは、夕陽の光の中に溶け込むように輝き、その柔らかな光が彼女を包み込んでいた。風に揺れる長い黒髪が、夕日の光を受けて、まるで墨絵のように繊細に舞っていた。あの髪の動きが一つ一つ、まるで空気の中を流れる羽のように、夢の中の幻想的な風景をさらに引き立てていた。
でも、その少女の背中には、ひっそりとした孤独と淡い哀しみが漂っていて、何かを隠しているように思えた。その姿が、何か深い内面の物語を語っているように感じられた。彼女の体が少し前に傾き、遠くを見つめるような、物思いにふける様子が映った。
耳に届くかすかな「ごめんね、ごめんね」という声が、わたしの胸を締め付けた。その声は、心の奥深くに沈んだ哀しみや後悔が込められているようで、わたしの胸に痛く響いた。どうしてもその声から目を逸らすことができず、心の奥底で共鳴するその響きに引き込まれていく。わたしは彼女に近づこうとするが、夢の中でのその瞬間に、景色がふわりと消えてしまう。
「あの子、いったいなんで泣いてたんだろう……」と、自分に問いかける。目を覚ますたびに、彼女の姿が心の奥に残り続けた。彼女は誰で、何を謝っているのか。その答えは、わたしの中に深く刻まれたまま、霧の中へと消えてしまうのだった。夢の中で感じた彼女の哀しみが、わたしの心に影を落としていた。
夢とわかっていても、そのイメージがどうしても頭から離れない。次第にわたしはある考えを抱くようになった。
似たような場所があったなら、ぜひ訪れてみたい。もしその場所に出会えたなら、これから先に進むための何かのきっかけになるんじゃないか。わたしはそう思い立ち、候補地をいくつかピックアップして、その場所を探すために旅に出たのだった。
「きっと見つかるよ。わたしは信じてる……」
期待を込めて微笑みながら、タブレットをしまった。心の奥で少しずつ芽生え始めた希望のような感情に気づきながら、自分の気持ちを素直に受け入れようと決める。
今日の目的地、石与瀬が近づくにつれて、車窓から見える風景も変わっていく。広がる海が目に飛び込み、波が打ち寄せる浜辺や、所々に見える小さな漁村が、都会とは全く違う穏やかな時間の流れを感じさせる。
「間もなく石与瀬、石与瀬です」
車内アナウンスが流れ、わたしはディバッグを背負い直し、小さめのキャリーケースを引っ張った。
列車が停車する音と共に席を立ち、出口へと向かった。降車ボタンを押すとドアが開き、初めて訪れる石与瀬の駅に降り立つ。
わたしは深呼吸をして、澄んだ海の香りをいっぱいに吸い込んだ。
「さあ、行こうか!」
自分に言い聞かせながら、わたしは駅舎を抜けて街の中心へと歩き始めた。
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