第57話

 けれど、最後に紫蓮の体温を感じることができて、嬉しかった……

 首に衝撃を感じた。

 だが痛みはない。

 呼吸を殺していた雪花は、浅く息を継いだ。

 つと頭を上げると、ばさりと白髪が床に舞い散る。

 切られたのは、髪だった。

 腰まであった長い髪を、ばさりと落とされている。

「これで、蘭妃は死んだ」

 ゆるゆると雪花は顔を上げる。

 紫蓮の精悍な顔が目に映った。雪花は死んでいなかった。死んだのは、蘭妃なのだ。

 つまりどういうことだろうと、内心で首をかしげていると、白刃を鞘に納めた紫蓮は言葉を継いだ。

「そなたは、俺の子を腹に宿している」

「え……」

 まさか。

 紫蓮の子を、身ごもっている……?

 あの夜伽の一夜で孕んでしまったというのか。もしかして、今まで体調が優れなかったのは妊娠していたためなのか。

「冷宮送りにしたのは栄貴妃の勝手な判断だ。懐妊している以上、ひとまずそなたを清華宮へ戻し、体調を回復させる。ただし、蘭妃の位は剥奪する。正式な処遇は改めて通達しよう」

 雪花は死を賜ることはなかった。

 否、処分を保留にされたというべきか。

 皇帝の子を宿しているからには、皇子か公主を出産するまで死ぬことは許されないのかもしれない。

「……ありがとうございます」

 そう言うと、紫蓮は兵士に合図を送った。すぐに鈴明と蘇周文が入室してくる。

「さあ、雪花様。清華宮に戻りましょう。こんなにお痩せになって……」

「すでに清華宮の寝台は整えてあります。わたしが抱えてまいりましょう」

 痩身を抱き起こそうとした蘇周文を、紫蓮がてのひらで制する。

 罪人なのだから、自分で歩かなければならないのだ。

 雪花は力の入らない足を踏ん張った。

 けれど、ふわりと体が浮く。

 紫蓮の強靱な腕の中に、抱きかかえられていた。

「俺が運ぶ」

 どうして……

 なぜ紫蓮は優しいのだろう。

 彼の優しさに、雪花の双眸から涙がこぼれる。

「なぜですか……私は、紫蓮を殺そうとしたのに……」

「そなたは、接吻を拒んだ。両親の命に背いて、俺を殺そうとしなかった。俺が倒れたのは、そなたの体液に触れたことにより微量の毒が移ったからだ。あの程度で俺は殺せないぞ」

「私は、紫蓮を、殺したくなかったのです……」

 ついに雪花は想いを吐露した。

 言ってしまうと、ふうと気が遠くなる。

 外の空気がひんやりとして、呼気が白くなった。

 雪がちらほらと舞っている。

 粉雪越しに、紫蓮の優しい笑みがあった。

「そなたの届けてくれた薬草が効いた」

「……よかった……」

「そなたの想い人というのは、俺なのだな?」

 雪花は小さく頷いた。

 そして、ふっと意識を失った。


 紫蓮の手により、雪花が冷宮から出されてひと月が経過した。

 清華宮で手厚い看護を受け、暖かい寝具で眠り、栄養のある食事を取らせてもらった雪花の体調は回復した。

 孕んだお腹は少しふっくらとしているが、服越しではわからないくらいだ。

 侍医によると、子の成育は順調だそうで、ほっとしている。

 お腹の子のためにも、ひとまずは罪を犯したことや死ぬことなどは考えないようにしていた。鬱々としていては、子の成育によくないから。

 雪花は、子の母になりたいと思い始めていた。

 両親のように子を虐待せず、大切に育てたい。

 けれど、そんな望みが罪を犯した自分に許されるのだろうか。

 清華宮にこもって療養しているので、外の世界のことはまるでわからなかった。

 雪花が皇帝暗殺を果たせなかったのは、内通者を通じて両親は知ったはず。その上で両親はどうしているのか、内通者は誰だったのか、まったく不明である。

 できれば、玉座の簒奪は叶わぬ夢だったとして諦めてほしい。

 初春のうららかな陽射しを窓越しに目を細めて見ながら、雪花は祈った。

 ふう、と息をついていると、鈴明が薬湯を持って寝室に入ってくる。

「雪花様、もう起きても大丈夫なのですか?」

「ええ。今日は気分がいいのです」

 体調がよくなったので、寝てばかりいては体に悪い。散歩しようと思った、そのとき。

「陛下のお越しにございます」

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