第54話

 ふと紫蓮の脳裏に、愛しい者の顔が思い浮かんだ。

「雪花はどうしている? さぞ心配をかけただろう。彼女は永安宮を訪れたのか?」

 問いかけると、蘇周文は突然跪いた。

 彼は床に額を擦りつけている。

「陛下! どうか、わたしめの話を聞いてください」

「どうしたのだ。話せ」

「実は……陛下が飲んでいた薬湯を調合した薬師とは、蘭妃様なのです」

 紫蓮は驚きに目を見開いた。

 なぜ雪花が薬師と偽り、蘇周文の手を借りて薬湯を届ける必要があるのか、疑問だった。

「そうなのか。だがなぜ、雪花はここに来ないのだ?」

「それが、蘭妃様は冷宮に送られています」

「なに⁉ 俺が伏せっている間に、なぜそのようなことになっているのだ。彼女を冷宮送りにしたのは誰だ!」

「栄貴妃でございます。謹慎処分は解けており、栄貴妃が後宮の主でありますゆえ……。蘭妃様が夜伽で陛下に毒を盛ったのだとされました。証拠は不十分なままで、その後は廷尉が捜査しております。良嬪や張青磁も冷宮送りを止めたのですが、力及ばず……わたしもなにもできませんでした」

 紫蓮は低い唸り声をあげた。蘇周文が再び床に額ずく。

「どうか、お願いでございます! 蘭妃様をお救いください。冷宮で倒れ、伏せっていらっしゃるのです」

「なんだと……彼女を侍医には診せたのか?」

「は、はい。報告を受けてわたしが侍医を呼びました」

「では侍医を呼べ。それから、廷尉もだ」

 命を受けた蘇周文は部屋を出ていった。

 間もなく、宮廷専属の侍医と廷尉がふたり同時に入室してきた。あとから来た蘇周文を、侍医が手で制する。

「陛下と我々の、三人だけでお話をさせてください。非常に繊細な内容ですので。よろしいですかな、陛下?」

「よい。蘇周文、下がっていろ。誰も寝室に近づけるな」

「御意にございます」

 慇懃に拱手した蘇周文は寝室から出ていく。そばにいた側近たちも寝所から離れていく足音がした。

 さて、と紫蓮は切り出す。

「冷宮にいる蘭妃が倒れたそうだな。容態はどうなのだ?」

「その前に、陛下にお伝えしなければならないことがございます。陛下が衰弱した病の原因です」

「なんだ」

 老齢の侍医は平静な顔で、淡々と述べた。

「毒を摂取したことによるものです。ごく微量ですが、複数の種類の猛毒が陛下の体内から確認されました。服毒というより、おそらく体液を通して毒が移った、と捉えるのが正しい見解かと」

「体液を通してだと? だが俺は幼い頃から毒への耐性をつけている。そんなもので俺を殺すことなどできない」

 他人と体液を交換する機会など、そうはない。

 まさか、夜伽で……?

 紫蓮は、ごくりと息を呑んだ。

 暗殺を防ぐため、幼い頃から微量の毒を摂取して耐性をつけている。致死量を服毒したならともかく、体液に触れたくらいで殺害できるわけがない。

「ええ、ですから軽い症状で済みました」

 侍医はちらりと廷尉に目を向ける。心得た廷尉が口を開く。

「栄貴妃の判断により、夜伽で蘭妃が陛下に毒を盛ったとして冷宮に送られていますが、間違ってはいません。侍医の診察の結果、蘭妃の体液は毒に冒されているそうです」

「なんだと……雪花が夜伽で俺を殺そうとしたというのか。そんなことはありえん!」

 声を荒らげたのは、思い当たることがあるからだった。

 雪花は、なにか事情がありそうな雰囲気をまとわせていた。夜伽のとき、彼女は想い人がいると告白していたが、その人物と結ばれるためなのか。

 だが、そのために雪花が紫蓮を殺すなど考えられなかった。

 彼女は澄みきった宝石のような真紅の瞳で、健気に紫蓮を見上げていた。そこには恋心が含まれているのだと、伝わったのだ。そして、雪花の純真な心も透けて見えた。

 雪花の善の心を信じたい。

 なにより、雪花はどこか追いつめられているような表情を時折見せるのが不思議だった。

 ――脅されているのか?

 そのとき紫蓮の脳裏に、彼女の毒親の顔が浮かんだ。

 雪花と会っていた子どもの頃、彼らは忌々しげに、皇帝の息子である紫蓮を見ていた。

 それは娘である雪花に男を近づけさせないためと当時は思っていた。

 だが、それならば彼らはなぜ、雪花を後宮に差し出したのだ?

 激高する紫蓮を、侍医が宥める。

「落ち着いてください、陛下。医師として診察した事実のみを申し上げますと、蘭妃の体内の毒は長年の服毒によるものです。彼女は特異体質で、猛毒でも死なずに体内に毒を蓄えられるのです。――ですがそれは、服毒を続ければの話です。すでに彼女の体内の毒は薄れています」

 信じがたい話だった。

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