第51話

 まさか、紫蓮になにかあったのだろうか。

 雪花は寝台から足を下ろし、着物をまとった。

 鈴明が玄関先で蘇周文に応対している声が聞こえてくる。

「お待ちください。雪花様はとてもお疲れです」

「それが、大変な……陛下に大変なことが起きたのです! すぐに蘭妃様にお目通りを」

 雪花は着物を翻し、裸足で玄関に駆けつけた。

「紫蓮がどうかしたのですか⁉」

 彼の身になにかよくないことが起こったのだとしたら、伏せってなどいられない。

 裸に着物をかけただけの雪花の姿に、蘇周文は拝礼して床に目を落とす。鈴明は素早く上着を手にすると、雪花の肩にかけた。

「陛下が、お倒れになりました……!」

 蘇周文は苦渋の声で報告した。

 紫蓮が、倒れた……?

 雪花の視界が、ぐらりと暗転する。

 まさか、夜伽をしたことにより、毒が移ってしまったのか。

 なぜ接吻を防いだだけで、紫蓮に害はないと思ったのだろう。

 身を傾いだ雪花を、息を呑んだ鈴明が支えた。

「雪花様! どうか、気をしっかり保ってください」

「大丈夫……私は大丈夫です。すぐに陛下のもとに向かいます」

 倒れるわけにはいかない。雪花は足を踏ん張った。

 すべての元凶は私なのですから、責任を取らなければなりません……

 どうか、生きていて。

 雪花は紫蓮の無事だけを祈った。

 けれど、もし彼が身罷るようなことがあれば、雪花も生きてはいられないと覚悟を決めた。


 旗服に着替えた雪花が永安宮を訪れたとき、多数の妃嬪が宮の前室で待機していた。

 雪花を見つけた良嬪がそばへ駆けつける。

「来たのね、雪花」

「陛下が倒れたと聞きました。容態はどうなのでしょう?」

「さっき侍医が来て、陛下の容態を説明したわ。命に別状はないけど、絶対安静ですって。なんでも毒の成分が体内にあるんだとか。妃嬪が毒を盛られた事件があったばかりなのに、気味が悪いわね」

 ひゅっと雪花は息を呑む。

 体をつないだので、雪花の体内にある毒の成分が紫蓮に移ってしまったのだ。

 だから彼は倒れた。

 やはり、私のせいなのですね……

 命に別状はないということで、それだけは安堵した。時間を置いて倒れたことからも、即死するほどの毒物の量ではなかったのだと思える。

 けれど油断はできない。

 そのとき前室に、固い表情をした張青磁が、廷尉とともに現れた。

 廷尉は宮廷で起こった事件を担当する官吏である。つまり紫蓮が倒れたのは、事件性があると見られているのだ。しかも妃嬪が毒物を混入されて倒れるという事件があったばかり。

 妃嬪たちを見回した廷尉は声高に言った。

「陛下は何者かに毒物を投与された疑いがあります。ただいま調査中ゆえ、皆様は早急にお戻りになり、ご自分の宮から出ませんように」

 泣いていた妃嬪たちは、すっと声を落とした。

 再びの謹慎が申しつけられたのだ。疑われていることに、妃嬪たちは眉をひそめた。

 そして彼女たちは、雪花へ目を向ける。

 昨夜、夜伽をした雪花は皇帝とともに夜を過ごしたはずだ……と。

 視線を感じながらも、雪花は張青磁に訴える。

「陛下に面会はできますか? 安静の邪魔はしません。寝顔を見るだけでいいのです」

 紫蓮の寝顔だけでも見て、無事であることを確かめたい。雪花はその一心だった。

 だが張青磁は首を横に振る。

「今は安静が必要という侍医の判断です。どなたもお会いできません」

 すると、ずいと廷尉が前へ出た。

「蘭妃は昨晩、陛下の夜伽をお務めになったとか。詳しくお話をうかがってよろしいですかな?」

「は、はい……」

 疑惑の目を向ける廷尉に、雪花はおずおずと頷いた。

 当然だが、皇帝に毒を盛ったのは蘭妃ではないかと疑われている。

 だが、険しい顔をした張青磁が割って入った。

「お待ちください。高貴な身分の蘭妃を尋問するというのか。後宮のことは、我々宦官に任せてほしい」

「特別扱いをするわけにはいかないのです、張青磁殿。燈妃は尋問に応じました。蘭妃はできないという理由でもありますか?」

「だが――」

 張青磁が渋っていた、そのとき。

 妃嬪たちの間から、甲高い声が張り上げられた。

「蘭妃よ! その女が陛下を毒殺しようとした犯人だわ!」

 ざわっとした妃嬪たちは、波が割れるかのようにいっせいに道を空ける。

 声の主は、栄貴妃だ。

 彼女はまっすぐに雪花を指差していた。

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