第50話
「紫蓮の気持ちはわかっています。……ですが、私には、想い人がいるのです」
その発言に息を呑んだ紫蓮は、雪花の顔からするりと手を離す。
雪花は、心のうちを正直に打ち明けたのだった。
その上で、紫蓮を生かす道を選んだ。
たとえ彼に誤解を与えようとも、嫌われようとも、紫蓮を殺すことなどできない。
だから夜伽を受け入れても、接吻だけは拒もうと決めていた。
なんて狡い女なのだろうと、雪花は心の底まで落ち込む。
雪花には蘭家の悲願を果たすことはできない。親を裏切ったのだ。それなのに、自分の想いだけは紫蓮に伝えようとしている。
それが、歪んだ形であっても。
表情を硬くした紫蓮は問い質す。
「そなたの想い人とは、誰だ。その者とは接吻をしたのか?」
雪花は首を横に振る。
それは否定であり、想い人が誰か口にするつもりはないという意思の表れでもあった。
雪花の想い人とは紫蓮なのだが、彼が誤解するのも無理はない。
夜伽を了承しながら、接吻は拒むという言動は、紫蓮のほかに好きな人がいるのだと表明しているのも同然だからだ。
紫蓮の命を守るためなら、架空の『想い人』を作り上げるのは、さも都合がよいように思えた。
「誰なのだ、雪花。言うのだ」
「言えません……」
「その者を守るためにか?」
「そうです」
ふたりの間に長い沈黙が下りる。
紫蓮は握りしめた拳を震わせていた。
皇帝である彼にとって、これほどの屈辱を与えられたのは初めてだったに違いない。
彼の権力ならば、今この場で、雪花は死を賜ってもおかしくなかった。
それでもよい。紫蓮を守るための死なら、喜んで受け入れようと雪花は思えた。
真紅の唇を震わせる雪花に、やがて紫蓮は口を開いた。
彼の声音は恐ろしいほどの冷徹さを孕んでいる。
「わかった。誰なのか聞き出すのはやめておこう。そなたへの接吻も、しないでおこう。雪花がそう望むのならば、それを聞き入れる。そなたを愛しいと思うことへの証明としてな」
「……ありがとうございます」
「だが、そなたが妃嬪であることに変わりはない。夜伽は務めてもらう」
紫蓮の言葉が、雪花の胸をじわりと抉った。その冷たさは凍えた剣のごとく、まっすぐに雪花の身を貫く。
接吻をしなくても、まぐわうことはできる。
つまり紫蓮は、愛情がなくとも妃嬪としての義務を果たせと命じているのだ。
それを雪花が断ることなどできなかった。
「わかりました。……でも、お願いですから接吻だけはご容赦ください」
念を押され、嫌そうに眉根を寄せた紫蓮だったが、彼は無言で雪花を促す。
乱暴にされたなら、出口のない恋心に諦めがつこうというものなのに、背に添えられた紫蓮の手は優しかった。
純白の褥にゆっくり押し倒される。紫蓮のてのひらは雪花の頬につと触れたが、すぐに離れた。
一糸纏わぬ姿になった雪花は、愛する人の楔を胎内に受け入れた。
唇を引き結び、声を漏らさなかった。
口を開いたら、接吻を誘ってしまうのではと恐れたから。
この恋心はどこにも行けない。
雪花の心の中で暴れる悲しみごと、ねじ伏せるしかないのだ。
やがて紫蓮は龍種を放つ。それを雪花は身震いをして受けとめた。
深い息を吐いた紫蓮は眉を寄せている。放出したものの、彼に満足した様子は見られなかった。
すると紫蓮の手が伸びて、上気した雪花の頬を包み込む。
いけない。接吻するつもりでは……?
びくりとした雪花は避けようと、顔を背ける。
その瞬間、紫蓮は手を離し、ばさりと上着を翻して寝台を下りた。
まだ夜更けのうちに、皇帝は清華宮を出ていく。
寂しいと思ってはいけない――
ぽっかりと心に空いた穴に気づかないふりをして、雪花は身を起こした。
長い夜が終わり、太陽が昇る。
室内が白々としていくのを、雪花は侘しい思いでぼんやりと見ていた。
その後、鈴明が食事を持ってきたが、夜伽で疲れていると言って雪花は寝台に伏せていた。
食べ物が喉を通る気がしない。
本当にこれでよかったのだろうか。
夜伽の最中に見た紫蓮は、なにかをこらえるような痛々しい表情をしていた。彼を守れたはずなのに、雪花は好きな人を苦しめたのだ。
「私は紫蓮を、守りたかった……それなのに、ほかにどうしたらよかったのでしょう……」
苦悩していたそのとき、清華宮に慌ただしく宦官が駆けつけた音がした。
「大変でございます、陛下が……蘭妃様はおいでですか⁉」
蘇周文の声だ。彼はひどく狼狽しているようだ。
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