第48話

「そうね。妃に昇格したのですものね。こなたの耳にはなんでも入るわ」

 卓を挟んで、栄貴妃は雪花と並びの長椅子に腰を下ろした。彼女は付き添ってきた侍女に手を振って合図を送る。

 侍女は手にしていた盆にかけていた白布を取り去った。

 そこには高価そうな茶器が用意されている。

「燈妃は龍井茶で妃嬪をもてなしたそうだけれど、こなたはもっと上質なお茶を用意したわ。蘭妃の昇格を祝って、お茶をふるまいましょう。もちろん、こなたのお茶を飲んでくれるわね?」

「はい。ありがたくいただきます」

 そう言われて断るわけにもいかない。雪花は了承した。

 侍女はふたつの茶碗を並べ、急須を手にした。名品なのか、急須には仙人が象られている。ごつごつとしている形状のためか持ちずらそうだ。侍女は持ち手を入れ替えて、それぞれの茶碗にお茶を注いだ。

 ひとつを先に栄貴妃に捧げる。残りのひとつがのった盆を、侍女は雪花に差し出した。

 雪花はふと気付いた。

 茶の水面が揺れている。

 侍女の手が震えているからだ。盆を捧げた彼女は床に目線を落としている。

 雪花が手を出さずに見ているので、侍女はさらに震え出した。彼女の肩が、がたがたと揺れる。

 苛立った様子で、栄貴妃が声をあげた。

「なにをしているの、蘭妃? さっさとお取りなさい」

「……はい」

 雪花が茶碗を持つと、唇を引き結んだ侍女は素早く下がった。

 栄貴妃は自らが手にした茶碗を掲げて、妖艶な笑みを見せる。

「さあ、乾杯しましょう」

 茶碗を掲げた雪花は、一息に茶を飲み干した。

 やはり、毒入りだ。

 だが、これまで飲んできた毒とは異なる点がある。混入された量が、若干多いのだ。

 けれど多少の量の違いがあるとはいえ、ふつうの人ならば充分な致死量に変わりはない。

 雪花と同じように茶を含んだ栄貴妃は、卓にことりと茶碗を置いた。

 栄貴妃も毒を飲んだはずだが、彼女は平然としている。

「――陛下の夜伽を初めに務めるのは、こなただと言ったはずよね?」

 唐突な話に、雪花は目を瞬かせる。

 雪花も卓に、空になった茶碗を置いた。それを栄貴妃は、ちらりと目にする。

「朝礼で言っていましたね。ですが、栄貴妃はまだ謹慎中の身ではありませんか? 本来なら、この清華宮へ来ることもお咎めがあると思いますが……」

「おだまり! おまえはこなたを裏切ったのよ。その罪は首を刎ねても許されない。おまえだけではない。こなた以外のどの妃嬪にも、得をさせないわ」

 執念を露わにした栄貴妃は、ぎりっと歯を噛みしめ、憎々しげに雪花を睨みつけた。そこに貴妃としての品格はなく、まるで怨念に塗れた幽鬼のようである。

 彼女は己のすべてを賭けて、雪花を亡き者にし、自分の望みを叶えようとしている。底知れぬ執着心に敬意を表して、雪花は明らかにする。

「附子ですね」

「……なんですって?」

 雪花は空になった茶碗に目を落とした。雪花の茶碗は空だが、栄貴妃のほうはまだ茶が残っている。

 同じ毒茶のはずなのに、なぜか栄貴妃の体調に変化はない。

 なんらかの細工を施して、茶を飲むふりをしたのだろうか。

「私には、毒は効きません」

 すっと腰を上げた雪花は、凜然として栄貴妃の前に立った。

 もうとっくに毒の効力が出てもよい頃だが、雪花は平然としている。

 毒の娘にはいかなる毒も効かないのである。

 嘔吐も転倒もしない雪花を目にした栄貴妃は、目を見開き、ぶるぶると震えた。

 雪花は自分の覚悟を、はっきりと口にする。

「今宵の夜伽を務めるのは、私です」

 キエエェ――……!

 鳥の断末魔のような悲鳴をあげた栄貴妃は、猛然と扇子を振り上げた。

 強かに雪花を打ちつける。何度も、何度も、扇子の骨が折れてぼろぼろになっても、彼女は切れ端で雪花の身を叩いた。

「なぜ死なないの⁉ 死ね、死ね、この目障りな女め!」

 別室にいた鈴明とほかの侍女が騒ぎを聞きつけ、慌てて駆けつけた。紙くずと化した扇子を振り上げる栄貴妃を押さえつける。

「栄貴妃様、おやめください!」

「死ね、死ねぇ……離さぬか! こなたを誰だと思っているの⁉ 誰か、誰か、こやつを打ちつけよ!」

 取り乱した栄貴妃は外へ連れていかれた。待機していた彼女の侍女たちが慌ててあとを追う。

 静けさの戻った清華宮で、雪花は再び長椅子に腰を下ろす。そして、そばにあった薬草の書を捲った。

 今まで騒ぎがあったとは思えないほどの落ち着きぶりである。

 心は凪いでいた。

 どうするのか、雪花の心は決まっていたのだ。

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