第44話
精緻な模様が彫られた盆に、いくつもの茶碗をのせて、宦官たちが入室してきた。
上級妃嬪だけではなく、全員へのふるまいである。下級妃嬪たちの間から、華やかな声があがった。
椅子の脇に置かれた雪花の卓にも、蘇周文が茶碗を置いた。
「どうぞ、蘭妃様」
「ありがとうございます」
茶碗を手にして、芳しい香りを吸い込む。ふくよかな龍井茶を、雪花はひとくち飲んだ。
「……うっ」
雪花の舌が、覚えのある味に反応する。
砒素だ。
この龍井茶は、毒入りである。
どうして……?
これまでは、密かに食事に毒が混ぜられていたので、茶に混入していたことはなかった。
けれど食事に混ぜられなくなったから、代わりに茶に入れたということなのか。
それにしては、おかしい。
鈴明は侍女の控室で待っているはずで、茶を用意したのは宦官たちである。まさか抜け出して、鈴明が茶を淹れるのを手伝ったというのか。
思わず雪花は、そばにいた蘇周文に訊ねた。
「あの、この龍井茶を淹れたのは、どなたですか?」
「わたしを含めた宦官たちでございますが……なにかありましたか?」
「いえ、とても、上手な淹れ方だと思いまして……」
蘇周文は朗らかに笑った。
「それはありがとうございます。蘭妃様の茶碗は高級な白磁でして、模様には黄金の……」
彼が説明していた、そのとき。
ガシャン、と茶碗が割れる音がした。
はっとして振り向くと、ばたりとひとりの妃嬪が床に倒れる。彼女は嘔吐していた。
悲鳴が室内に響き渡った。
突然倒れた妃嬪の周囲に、宦官が集まる。
宦官のひとりが怒声をあげた。
「これは……毒だ! 皆様、龍井茶を飲んではなりません!」
万葉宮はとてつもない騒ぎが起きる。
妃嬪たちは次々に茶碗を放り出して逃げ出した。青ざめた燈妃の制止する声が空しく響く。
呆然とした雪花は茶碗を取り落とした。
粉々に割れた茶碗の破片に交じり、毒入りの茶が床に染みを作った。
その日から数日間、すべての妃嬪に宮での待機命令が下された。
倒れた妃嬪は命を取り留めたと蘇周文から報告を受けたので、雪花は胸を撫で下ろした。どうやら混入された毒は微量だったようだ。
ほかの妃嬪に被害はなく、ひとりの答応にのみ毒物が入れられたということだった。もちろん雪花の茶碗には致死量の砒素が混入されていたのだが、そのことは誰にも話していない。雪花は茶碗を落としてしまったので、蘭妃の茶碗にも毒物が入れられていたことは気付かれなかった。
さっそく刑の担当である廷尉により調査が行われ、龍井茶をふるまった燈妃が疑われたが、彼女はなにも知らないと言い張り、それを貫いた。
犯人は、あっさり捕まった。
下級宦官が、茶を淹れる際に誤って、所持していた砒素の粉を撒いてしまったと自白したのだ。なぜそんなものを持っていたかというと、怪しい町医者から胃の薬と偽られたのだという。
本人は知らなかったとはいえ、ことを重く見た紫蓮は、宦官を後宮退去処分にした。宦官を指導していた張青磁は皇帝と燈妃に謝罪し、自ら側近の地位を返上しようとしたが、紫蓮の恩情により、謹慎処分で済んだ。
ほかの宦官たち、そして燈妃は無関係であり、お咎めなしとされた。
そうして事件は解決したわけだが、どうにも雪花は腑に落ちない。
砒素を飲んで倒れた答応は、雪花と一度も話したことのない人だ。もちろん蘭家とはなんのつながりもない。
彼女は雪花の巻き添えを食ったのだろうか。
それに、犯人とされた宦官も、雪花とは接点のない人物だった。彼の証言が真実ならば、胃薬と思っていた砒素の大部分が、雪花の茶碗に誤って入ったわけである。そのことを彼はなにも言わずに、後宮を去ったことになる。
それらは偶然の産物だろうか。それとも……何者かの思惑があるのか。
鈴明が急須から茶を注いでいる湯気を目にして、雪花は思考から引き戻された。
「とんでもない事件でしたね。でも無事に解決してよかったです」
ごくりと息を呑んだ雪花は、茶碗を手にした。
少しだけ口に含んでみるが、毒物は混入されていない。
茶碗を置いた雪花はぎこちない笑みを浮かべて、鈴明に問いかけた。
「鈴明……妃嬪たちがお茶を飲んでいたとき、あなたは控室にいたのですよね?」
「はい。ほかの侍女たちもいましたし、悲鳴が聞こえたときはみんな驚いていましたよ」
「そうですよね……では、お茶の準備を、鈴明はしていないのですね?」
「ええ、その通りですが? まさか雪花様、わたしが毒を入れたとでもお疑いですか?」
苦笑した鈴明は怒っているわけではないが、主人に疑われてがっかりしたといわんばかりに肩を竦めた。
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