第42話

 どうやら、次の夜伽が未定であることに落ち込んでいると思われたらしい。

 蘇周文も腰を低くして、人好きのする笑みを浮かべた。

「陛下は蘭妃様を大切にしておられます。良嬪のおっしゃる通り、すぐにご指名があるでしょう」

 励まされるほど、早く密命を果たせと急かされているような気になる。

 雪花の鼓動はどきどきと、嫌なふうに脈打った。

 そっと目の端で、鈴明がどうしているかうかがう。

 すると彼女はほかの侍女に指示を出しつつ、茶の支度をしていた。

 蘭妃付きの侍女長となり、鈴明も昇進した。

 穏やかな笑みを頬に刻んだ鈴明が、急須から注ぐお茶が湯気を立てている。

 ゆるりとした穏やかな日和だ。

 誰もが昇格した喜びに、笑みを見せている。

 雪花だけが、この緩やかな平和にひそむ狂気を感じて、背筋を凍らせていた。


 妃に昇格し、清華宮へ引っ越してから数日後――

 雪花の身辺に、とある変化があった。

 食事に毒が混入されなくなったのである。

 答応のときは、膳房で作った食事が一律に運ばれてきたのだが、宮持ちの上級妃嬪になると形式が変わる。

 宮の敷地内にある膳房で、その妃嬪のためだけに個々に食事が作られるのだ。

 雪花は献立についてなにも注文をつけていないが、上級妃嬪の食事はおかずだけで十品ほどあり、とても豪華なもので驚かされた。

 そのどれにも、毒が入っていない。

 鈴明の様子は変わりないが、品数が多くなったので彼女だけでは手が回らず、ほかの侍女も食事の用意を手伝っている。そのため、毒を入れる機会を失ったということなのだろうか。

 まさか事情を訊ねるわけにもいかないので、雪花は不思議に思いながらも黙っていた。

 毒を食べなくなったら、わずか数日で真紅の唇の色が薄れてきた気がする。

 ずっと服毒していたので考えもしなかったが、毒をやめれば、効果が薄れるのかもしれない。このままふつうの食事を続けていたら、雪花は毒の娘ではなくなるのだろうか。

 銅鏡を覗いた雪花は、奇妙な期待に胸を高鳴らせる。

 もしかして、密命は中止にするだとか……?

 そうだとしたら、雪花は紫蓮を殺さなくて済む。雪花も、ふつうの体に戻れるかもしれない。

 わずかに色が薄くなった唇が、希望のしるしのように見えた。

 華麗な大拉翅をいくつもの花々で飾り、雪花は微笑みを浮かべた。

 飾りの花を整えた鈴明は、するりと雪花の肩にかけていた白布を外す。

「お支度が調いました。さあ雪花様、参りましょう」

「はい」

 鈴明に手を取られて席を立つ。紫蓮からの贈り物である花盆底鞋を滑らせた。

 本日は妃に昇格して、初めての朝礼である。

 清華宮の門前には、すでに輿が待機していた。

 雪花が乗る輿の後ろには、自分の輿に乗った良嬪が手を振っている。

 それに軽く手を上げて挨拶し、輿に設置された椅子に雪花が座ると、十数名の宦官が輿棒を担いだ。

 人の身長よりも高い輿は、道の遠くまで見渡せる。

 後宮の宮の甍がずらりと並んでいる様子は壮麗だった。

 東の区域にある上級妃嬪の宮から、朝礼の行われる万葉宮まではほど近いのだが、上級妃嬪になると歩かず、常に輿に乗って移動するのだ。

 ややあって、万葉宮の前に辿り着く。

 再び鈴明に手を取られて、雪花は輿を下りた。

 豪華な花盆底鞋は靴底が高いので、転ぶのを避けるため、高貴な女性は常に侍女の手を借りる。

 雪花が万葉宮へ入ろうとすると、列になっていた下級妃嬪たちがいっせいに立ち止まり、こちらに向かって万福礼をした。

「蘭妃様にご挨拶いたします」

「礼はよいです。宮に入ってください」

「蘭妃様に感謝いたします」

 つい先日までは礼をするほうの立場だったのに、こうしていっせいに傅かれるなんて、なんだか面映ゆい。

 貴人以下の下級妃嬪は宮の脇にある狭い出入り口を通るので、正面玄関は使えない。雪花は鈴明に手を取られて、万葉宮の壮麗な正面から入った。

 後ろに続いた良嬪が、こっそり囁く。

「いい気分ね。偉くなるって、楽なことばかりだわ」

「良嬪ったら……そうでもないと思いますよ」

「楽ちんに決まってるじゃない。だって今日は栄貴妃がいないしね。なんたって、謹慎中だもの」

 栄貴妃は皇帝から謹慎を言い渡されたのだと、噂が広まっていた。理由については雪花は知らない。

「なにかあったのでしょうか……?」

「あの態度だもん。日頃の行いが目に余るってことよ!」

 良嬪は仇敵をやっつけたかのように、嬉しそうな顔をして片目をつむった。

 果たしてそれだけだろうか。探るのはよくないが、なんだか気になった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る