第40話
「雪花を迎えるために用意させたのだ。清華宮は由緒ある宮のひとつで、皇貴妃のための住まいとして使用される」
「あの……このような豪華な宮を、夜伽のために使うのですか?」
疑問を述べた雪花の両手を、紫蓮は取った。
ぎゅっと握りしめて、彼は真摯な双眸をまっすぐに向ける。
「雪花を、妃に封じる。今日からそなたは蘭妃だ」
息を呑んだ雪花の横で、付き従っていた蘇周文が聖旨を取り出した。
「皇帝陛下の勅令でございます。蘭答応は昇格し、妃に封号されました」
聖旨には確かにその旨と、耀嗣帝の署名、そして玉璽が押されている。
雪花は青ざめた。
紫蓮が雪花に心を砕いてくれるのはありがたい。
けれど、それは夜伽を務めるためなのだ。つまり紫蓮は雪花を優遇するほど死へ向かっていくことになる。
なにより、雪花はなにも功績を立てたわけではない。昇格する理由がなかった。
「紫蓮……私はなにも功績を立てたわけではありません。しかも妃だなんて、四等級もの昇進ではありませんか」
「そなたは園遊会で演奏を成功させた。昇進させるのは当然だと、俺はそう言ったはずだ」
「でも、あれは……紫蓮に手伝ってもらえたから、成功したのです。私ひとりでは到底無理でした」
「そうだとも。そなたはひとりではない。俺がいる。今後も俺を頼るがよい」
どう言っても、妃への昇格は避けられないようだ。
後宮の妃嬪で、昇格したくない者などいないだろう。
どの妃嬪も、誰よりも偉くなって、豪華な宮に住みたいと願うに違いないのだから。
視線をさまよわせる雪花を、紫蓮は訝しげに見た。
「妃になるのは不満か?」
「いえ……そういうわけではないのです。ただ、どうしたらよいのか戸惑ってしまって、不安なのです」
それは本心だった。
紫蓮は安堵したように、微笑みを浮かべた。
「そうであろうな。そなたが心細さを感じないよう、侍女の鈴明には引き続き、妃の侍女として勤めてもらおう。それから宮付きの宦官として、蘇周文をそなたの側近につける。そなたと仲の良い答応も、嬪に昇格させよう。もちろん妃の専属として工人やほかの召使いを幾人もつける。そなたに不自由な思いはなにもさせない」
その言葉に、鈴明と蘇周文は同時に跪いた。
「陛下に感謝いたします」
「よい。頭を上げよ」
雪花が昇格するということは、彼らもまた昇格し、新たな肩書を得たのだ。雪花ひとりの都合で昇格を断るわけにもいかないのだと知る。
こうなっては、妃への昇格を受け入れるしかないだろう。夜伽の件はまたのちほど考えよう。
そう思い、雪花は膝をつこうとして、紫蓮とつないでいた手をほどいた。
「陛下に感謝いたし……」
「そなたはよい。俺の手をほどこうなどと、けしからんな。罰として、ずっと俺の腕の中にいろ」
笑って言う紫蓮は、あくまでも冗談なのだろう。
密命がなかったら、雪花はなんの心配もなく好きな人に愛されて幸せだったに違いない。
だが紫蓮の紡ぐ言葉の裏の意味を考えて、背筋を震わせてしまう。
彼が言った『罰』とは、まるで雪花のこれからの行いに絡めているような気がしたから。
愛する人の腕に抱きしめられて、雪花は頬を引きつらせた。
新たな住まいとなった清華宮で、雪花は羅紗張りの広い長椅子に座していた。
周囲では鈴明を始めとした複数の宮付きの侍女が動き回っている。答応の部屋から引っ越したため、荷物もわずかながらあるのだが、それよりも膨大な旗服や数々のかんざしなどの装飾品を片付けるのに、彼女たちは忙しいのだ。
また下級宦官を連れた蘇周文が、雪花のもとへやって来た。
「ご覧ください、蘭妃様。こちらは陛下からの賜り物の、花盆底鞋でございます」
「まあ……素晴らしい靴ですね」
細やかな彫刻が施された朱塗りの盆にのせられた豪奢な靴を、下級宦官が捧げた。
花盆底鞋は、裾の長い旗服でも土に引きずらないよう工夫して作られた、底の厚い靴である。側面には花模様をあしらうので、花の盆栽のように見えるため、この名がつけられたという。
「こちらは金糸を使った蜀錦で作られています。つま先の玉は東珠で気品に溢れております。貴重な蜀錦と東珠を使用するのは、陛下が蘭妃様を寵愛されている証です」
「素敵ね……履いてみます」
そう言うと、すぐに鈴明が靴を受け取り、雪花の足元に身をかがめる。彼女の手により、丁寧に高級な花盆底鞋が履かされた。
雪花の足元は美しい靴で光り輝いた。
それまで履いていた無地の靴とは比べ物にならない高価な品である。
靴だけではなかった。
旗服も妃らしく、全面に緻密な刺繍が施された艶やかな朱の服を着ている。髪もこれまでの両把頭ではなく、華麗な大拉翅に結い上げていた。しかも大拉翅には、ずらりと真珠を並べ、点翠を飾っている。点翠は青い羽根状の工芸品であり、これもまた美しく貴重なものだ。
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