第39話
園遊会での演奏を成功させたら、紫蓮に認められる奏者になれると思ったのだ。
けれど実際には、紫蓮の手を借りて演奏を成功させた形になった。やはり人前で披露するには、雪花はまだまだ未熟なのだと実感したばかりである。
それなのに、彼が雪花に頼みたいこととは、いったいなんだろう。
紫蓮は双眸を細め、顎を引いた。
「そなたに頼みたいこととは……夜伽だ」
「あ……そうだったのですね」
「火事騒ぎにより中止されてしまったが、それを不吉だと捉える意見が重臣から出ている。位の低い答応が龍床への道を通ろうとしたから、祟りがあったなどとな。栄氏は非常に馬鹿げた話を展開した」
洛明宮の火事が起こったのは、夜伽に指名された雪花のせいだとする意見があるのだ。栄氏とは大貴族の大監で、栄貴妃の父親のことだろう。栄貴妃は位がもっとも高い妃嬪であり、一番に夜伽に指名されるのは自分だと本人も言っていたから、雪花の夜伽を快く思わないのは当然だ。
雪花がうつむくと、紫蓮は話を継ぐ。
「だがそれは、俺にとって幸いとも言える」
「えっ……幸い、なのですか?」
驚いた雪花は紫蓮の顔を見た。
陽射しを受ける彼の横顔は堂々と前を見据えている。頑健な、一国の帝王の顔だった。
「うむ。答応が龍床への道を通るから問題なのであろう? きまりにより、宮を持たない貴人以下の妃嬪は永安宮へ赴くことになっているからな。だが、上級妃嬪ならば自分の宮を持っており、そこで夜伽を行う。まさか龍が通る道を阻む者はこの世にいまい」
「ということは……紫蓮が、上級妃嬪の方のみを、夜伽に指名するということなのですね?」
慎重に聞き返すと、紫蓮は真顔になった。
栄氏が雪花の夜伽を反対していることからも、紫蓮が栄貴妃を夜伽に指名すれば、宮廷の権力関係としてもなんの問題も起きないと思われる。
だが紫蓮が深く嘆息したことにより、彼はそういうつもりではないのだとわかった。
「雪花……そなたはまさか、俺がそなたを放って、上級妃嬪を夜伽に指名するのだと思ってはいないか?」
「そうではないのですか?」
紫蓮はまた嘆息をこぼす。
彼を落胆させてしまったと雪花は内心焦るものの、ほかの可能性が思いつかない。
つないだ雪花の手を、紫蓮は陽に捧げるかのように高く掲げた。
その遥か上空を、一羽の鳥が横切っていく。
陽の光の眩しさに、雪花は目を眇めた。
「俺は皇帝だ。万人が俺の足元に跪く。あの鳥を今すぐ捕らえて、忠節を誓わせよと命じることも容易い」
「はい。その通りです」
「それなのに唯一、そなたの心だけは手に入らない。俺が本当に欲しいものだけは、この手からは遠いのだ」
ふたりの手はしっかりとつながれているというのに、紫蓮は遠いと言う。
彼の言いたいことを、雪花は察した。
おそらく紫蓮は、雪花が暗殺の密命ゆえに夜伽を臆していることを、心が遠いと感じているのだ。
雪花は紫蓮のことが好きなのに、それを伝えることができない。
伝えてはいけない。本心を打ち明ける資格など、雪花にはないのだから。
せめてもと思い、雪花は紫蓮の苦しみを宥めようとした。
「私は陛下に忠誠を誓っています」
「急に”陛下”か。そういうところに距離を感じるぞ。そなたは俺のことが嫌いなのか?」
「まさか! 陛下……紫蓮のことを嫌いな妃嬪なんていません」
「ほかの妃嬪のことなぞ、どうでもよい。俺はそなたの心がどこにあるのかを聞いている」
「それは……嫌いではないですから……」
雪花は困ってしまった。
正直に『好きです』と言ったら、なにかが変わるのだろうか。雪花には悪い方向へ転がっていくようにしか思えなかった。
表情を曇らせる雪花を見て、紫蓮は微苦笑をこぼす。
「悩まないでくれ。俺が悪かった。無理に言わせるなど、意味のないことだ」
「あの……ごめんなさい。私の心の準備ができていないのです」
「謝らなくともよい。わかっている。俺が言いたいのは、そなたを上級妃嬪に昇格させれば、夜伽の邪魔が入らないということなのだ」
「……えっ⁉ 私を、上級妃嬪に……?」
ふたりは東の区域にやって来た。この辺りには、上級妃嬪の宮が建ち並んでいる。定員に達していない耀嗣帝の後宮は、無人の宮も多かった。
火災のあった洛明宮とは、道の反対側にある宮のひとつへ、紫蓮に導かれる。
門をくぐると、広い庭園に迎えられる。水盆には蓮の花が活けられていた。
豪壮な玄関には『清華宮』という額縁が掲げられていた。雪花がここを訪れるのはもちろん初めてだ。
「さあ、中へ入ってみよ。今日からここが、そなたの住まいだ」
「ここが……」
朱塗りの柱に支えられた広大な宮殿は、前室から入ると応接室がいくつもある。そして寝室に浴室、衣装部屋や侍女の控室まであった。どの部屋も綺麗で明るく、精緻な意匠の家具が設置されている。まさに上級妃嬪のための豪勢な宮だ。
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