第36話

 とはいえ、眠りに就いたのは朝方である。

 図らずも夜伽がなくなり、雪花は紫蓮を殺さずに済んだ。

 これは偶然だろうか。それとも何者かの策略なのだろうか。

 考えても答えは出ないのだが、皇帝暗殺の密命が延期されたことだけは確かだった。

 雪花は心のどこかで、ほっと安堵していた。

 それに反し、がっかりしたのは鈴明だ。

 彼女は落胆して、朝から肩を落としている。

「昨夜は残念でしたね……。雪花様が初の夜伽をする妃嬪になれるはずでしたのに。火事が起こったのが不吉だとでも思われたらどうしましょう。陛下が心変わりしないといいのですけど……またあらためて夜伽に指名されますよね?」

 暗殺が未遂に終わってしまったことを残念がっているようには……見えるようでもあるし、見えないようでもある。

 鈴明は内通者のはずなのだが、雪花には確証がなかった。

 というのも、鈴明はいっさい内通者だと匂わせる言動が見られないからだ。しかも彼女は雪花の身を心から案じ、夜伽がなかったこともまるで自分のことのように口惜しく考えている。

 椅子に腰かけていた雪花は、鈴明の様子に内心で首をかしげた。

 どういうことなのでしょう……。まさか鈴明が内通者でないなんてことは……

「でも、火事に巻き込まれなくてよかったです。ねえ、雪花様」

 びくりとした雪花は肩を揺らす。

「えっ、ええ……そうですね。洛明宮の火災もさほどではなかったと聞きましたし……」

 雪花は思いきって、鈴明に訊ねた。

「あの……鈴明、もしも、大切な人を殺すことになったら、あなたはどうしますか?」

「はあ? 火事で失うという話ですか?」

 突然の質問に、鈴明は目を瞬かせた。

「ええ……状況は、まあ……どうにもならない状況で好きな人を殺すことになったらどうするかという、もしもの話です」

「そうですねえ。その『どうにもならない状況』というのがピンときませんけど、好きな人を殺すだなんて悲恋の主人公みたいで、格好良くて憧れますね。わたしはものすごく好きになった殿方なんていませんから、そんな大恋愛をこれから経験してみたい気もしますけどね」

 肩を竦めた鈴明は笑っている。

 彼女は本心を話しているように見えた。

 皇帝暗殺についての話なのだが、鈴明にはそうとわかっていないように見える。

 それともほかの誰かに会話の内容を聞かれないために、とぼけているだけなのだろうか。

 雪花が不思議に思っていると、戸口に蘇周文が現れた。彼は頬を綻ばせて拱手する。

「おはようございます、蘭答応。昨夜は大変でしたね。お怪我がなく、なによりでした」

「ありがとう、蘇周文。私は平気です」

「そうはおっしゃいましても、夜伽が中止になりましたので、さぞかし落胆されていることかと存じます。でもご安心ください。吉報を持ってきましたから」

「吉報……ですか?」

 首をかしげていると、部屋の外から咳払いが聞こえた。

「話が長いぞ、蘇周文」

「これは失礼いたしました、陛下」

 旗服の裾をさばいて入ってきたのは、紫蓮だ。

 息を呑んだ雪花は素早く椅子から下りて、鈴明とともに拝礼する。

「陛下にご挨拶いたします」

「礼はよい。昨夜はすまなかったな」

 紫蓮は雪花のそばに立つと、手を差し伸べた。雪花は白い手を、紫蓮の大きなてのひらにそっとのせる。

 手を握り、雪花を立たせた紫蓮は黒曜石のように輝く瞳をまっすぐに向けた。曇りのない大海のごとく、深い色をした目に、雪花は吸い込まれそうになる。

「とんでもありません。洛明宮は全焼を免れたと聞きましたし、怪我人もいなかったとか。それを聞いただけで安心しました」

「うむ。不幸中の幸いと言える。洛明宮は俺が幼い頃に母君と過ごしたところなのだ」

「まあ……そうでしたか。思い出のある宮がなくならなくて、よかったです」

「夜伽が中止になったのは残念だった。その代わりと言ってはなんだが、少し話をしてもよいだろうか」

「もちろんです。私も……紫蓮に会いたかったです」

 ふたりは柔らかな微笑みを交わす。

 鈴明が椅子をもう一脚持ってくると、紫蓮はそこに腰を下ろした。

 が、彼は座りながらつないだ雪花の手を引く。

 まるでひとときも離れたくない恋人同士のようで、雪花は微苦笑をこぼす。彼の隣の自分の椅子に、雪花は座った。

 それを見届けた鈴明と蘇周文は音もなく部屋を退出する。もちろん彼らは持ち場を離れることなく、すぐ外に控えるのだが。

 部屋の外から注ぎ込む木漏れ日が優しい光を湛えていた。

 紫蓮と過ごす時間はなんて穏やかなのだろうと、雪花は心を和ませる。

 そうしてふたりはしばし無言で、部屋から覗く通路の石畳を眺めていた。

 ややあって、紫蓮がふいに口を開く。

「そなたは咎めないのだな。俺が正体を偽っていたことに対して」

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