第35話

「宦官は洛明宮に火を点けたあと、夜伽の馬車を止めさせた。そなたは『夜伽を一番目にするのは自分だ』と言って、ほかの妃嬪が夜伽をしないよう指示したそうだな」

 袖を払うと、気まずそうな顔をした栄貴妃は手を離した。

 皇帝の袖に縋りつくなど、礼節に欠ける行いである。

 彼女は誤魔化そうとしているが、栄貴妃が宦官に放火を指示したのは明らかだ。

 それにもかかわらず認めようとせず、図々しい言動の数々には落胆しかない。栄貴妃の頭には保身しかないのだ。

 紫蓮は言葉を継いだ。

「夜伽を止めさせる目的で火事を起こさせたのだろう。そなたは雪花に園遊会での奏者を命じた。それらの朝礼での発言が宦官により記録されている。七夕で失態を犯した貴人と同じ目に遭わせようとでも思ったのだろうが、予想に反して雪花の演奏が成功し、夜伽を命じられたから嫉妬したのか?」

「それは……そんなことはありませんわ。すべて陛下の想像でございます。こなたがなにをしたというのですか?」

「では、宦官の自白はどうする。そなたを審議にかけてもよい」

「こなたは潔白です! 正二品の大監である父の名誉にかけて!」

 栄貴妃は叫び声をあげた。

 ここで大貴族の後ろ盾があることを持ち出すあたり、小賢しい。栄貴妃は己の罪を認めたも同然だ。

 だが現時点では、宦官の自白のみで栄貴妃を降格させるのは難しい。もし降格させたら、栄貴妃の父親が黙っていない。栄氏は権力を振るい、宦官が偽っているのだと、どこまでも貫こうとするだろう。そうなると宮廷にも権力争いが勃発するかもしれない。

 それには時期尚早だと判断した。

 紫蓮はこの場で栄貴妃を断罪することは諦めた。

「なるほど。では審議については持ち越そう」

 ほっと胸を撫で下ろした栄貴妃は、勝ち誇ったかのような笑みを見せた。

「ありがとうございます。こなたを信じてくださるのですね」

「そうは言っていない。決定的な証拠に欠けるので、今回は審議を持ち越すと俺は言っている。そなたを疑っていることに変わりはない」

 はっきり言うと、栄貴妃はまた無表情になる。

 自分の期待通りに紫蓮が動かないので、おもしろくないようだ。

 洛明宮が紫蓮にとって大切な宮だと知りながら放火を命じるなど、許しがたい行いだが、それとは別に彼女を許せないのは雪花についてだった。

 紫蓮は話題を変えた。

「雪花の琴の講師に、『悲恋の曲を指定せよ』と命令したそうだな。すでに講師は口を割っている。そなたの命令でしたことだと」

 ぽかんとした栄貴妃だったが、やがて思い出したらしく顔をゆがめた。

 紫蓮が講師を呼んで問いただしたところ、彼は保身のため、あっさりと栄貴妃の命令だと告白したのだ。

「園遊会のことですの? こなたは知りませんわ。宦官も講師も、こなたを罠に嵌めようとしているのです。なんとこなたは哀れなのでしょう。陛下はこなたを信じてくれませんの?」

 栄貴妃はさめざめと泣きだした。

 袖で目元を覆っているが、泣き真似である。

 紫蓮は明確に宣告した。

「雪花を傷つける者は、誰であろうと許さぬ」

 ぴたりと、栄貴妃は泣き真似をやめた。

 彼女が袖の向こうで、ぎりっと歯噛みしている様子が伝わってくる。

「なにをしても許される価値が自分にあると思わぬことだ。そなたの言動が目に余るようなら、栄氏ごと切り捨てることを俺は厭わない。貴妃の代わりはいくらでもいる」

「それは蘭答応のことですか?」

 鋭く問いかける声には、つい先ほどの泣き言はどこにも見られない。演技は白々しく、本音は嫉妬や保身だらけなので相手をしていてうんざりする。

 この女に、後宮の主たる資格はない。

 紫蓮はひとまずの処置を申し渡した。

「そなたに、ひと月の謹慎を課す。また、そなたから『後宮の主』の称号を一時的に剥奪する。謹慎中は燈妃が主代行とする」

 栄貴妃は息を呑んだ。

 思わず彼女が袖を下ろすと、そこに涙の痕は微塵もなく、目は鬼神のごとく吊り上がっている。

「なんてことをおっしゃるのですか⁉ 後宮の主はこなたにしか務まりません! 燈妃になんてこなせるわけが……」

 延々と続きそうな恨み言を聞く気はない。

 嘆息をこぼした紫蓮は踵を返した。

 追い縋ろうとする栄貴妃を、張青磁が止めに入る声が聞こえた。


   ◆


 洛明宮の火事騒ぎから一夜が明けた。

 馬車が戻ってきたので、雪花はそのまま部屋で待機していた。

 だが蘇周文がやって来て、洛明宮の火災は落ち着いたこと、今夜の夜伽は中止になったことを告げられて、ようやく床に入った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る