第34話

 生きていれば人は誰でも、ある程度は汚れる。

 だが雪花は今も冴え冴えと澄み渡る目をしているのだ。あそこまで綺麗な人間を、紫蓮は見たことがない。

 だからこそ、周囲の穢れた人間たちに囲まれて怯えているのだろう。雪花は実家で虐待されていたことが原因かと思うが、昔から異常に怯えていた。

 だが、もう安心だ。

 俺が守ってやれるのだから――

 そう考え、紫蓮が頬を緩めたとき、側近が宦官の来訪を告げた。

 現れた栄貴妃付きの宦官は、龍の雷を食らうことがわかっているかのように、床に這いつくばる。

「お、お呼びでしょうか、陛下……」

「そなたに聞きたいことがある。火事が起こったとき、そなたは夜伽の馬車を止めたそうだが、まことか?」

「はい。火が燃え広がっていましたので、危ないと思いまして、慌てて宮から向かったのです」

「栄貴妃の宮の隣が火災のあった洛明宮、そして馬車の通った道は洛明宮に面している。そなたの証言によると、火が燃え広がっているのを見て、わざわざ洛明宮を越えて馬車を止めに行ったことになる。ほかにすべきことがあると思うが?」

「……あのときは気が動転していまして……よく覚えておりません」

「そなたが火を点けたのか?」

 うっ、と宦官は小さく呻いた。彼は伏したまま、ぶるぶると体を震わせる。

「そ、それは……あの……」

「そなたの主は栄貴妃ではない。後宮にいる者すべての主は耀嗣帝である、この俺だ。そうであろう?」

 はっとした宦官は顔を上げた。彼の目には涙が浮かんでいる。

「お許しください! 栄貴妃様のご指示なのです。命令通りにしなければ、家族の命はないと脅されてやったのです!」

「よく正直に言った。そなたには最大限の恩赦を与える。また、栄貴妃の宮付きからは外す」

 宦官は床に額を擦りつけた。

 ――やはり、栄貴妃の仕業か。

 宦官を下がらせた紫蓮は深い溜息を吐く。

 雪花が夜伽を務めるのを阻止するために、放火を指示して騒ぎを起こさせるとは。その短慮と心根の貧しさには心の底から落胆する。

 貴妃から下ろすのは簡単だ。

 だが、ほかに貴妃はおらず、栄貴妃を降格させるなら代わりに誰かを貴妃にする必要がある。紫蓮としてはそれは雪花しかいないのだが、夜伽が中止になったのに、突然答応を一足飛びで貴妃に昇格させるわけにもいかない。

 後宮とは規律に縛られた場所なので、なんでも皇帝の好きにできるわけではないのである。

「皇帝というのも煩わしいものだ」

 嘆息した紫蓮は張青磁を呼び、洛明宮へ向かった。


 洛明宮の炎は鎮火し、辺りは落ち着きを取り戻していた。

 紫蓮は消火活動にあたった宦官たちをねぎらい、見張りの兵士から話を聞いた。

「火は建物全体にはまわらず、玄関が焼け焦げました。外部から侵入した何者かが火を点けたものと思われます」

「なるほど。引き続き、警備にあたれ」

 やはり、先ほどの宦官の証言に間違いはないようだ。

 紫蓮は星明かりのもとに佇む洛明宮を見上げる。

 後宮の妃嬪が住まう宮はどれも歴史ある大切な建造物だが、洛明宮が無事でよかったと心から思う。

 洛明宮は、紫蓮の母である殷貴妃が住んでいたところなのだ。幼い紫蓮もこの宮で過ごした。記憶はおぼろだが、大事な思い出である。

「犯人に釘を刺しておかねばならんな」

 踵を返した紫蓮は隣の宮へ足を向ける。

 栄貴妃の宮は突然の皇帝の訪問に湧いた。

 侍女は歓喜の声をあげて、主を呼びに奥へ向かう。

 喜色を浮かべて現れた栄貴妃は、夜更けにもかかわらず寝巻ではなく、旗服を着ている。

「陛下、ようこそいらっしゃいました。こなたを心配して来てくださったのですね」

 まだなにも言っていないが、己の主張が正しいものだと据える彼女の言動には窮屈さを覚える。

「聞きたいことがあって来訪した。そなたの宮付きの宦官が、栄貴妃の指示で洛明宮に火を点けたと自白したのだ。それに相違ないか?」

 栄貴妃は一瞬無表情になったが、すぐにぎこちない笑みをのせた。

「まあ……なんのことやら。こなたはなにも存じませんわ。宦官は突然いなくなったのですから」

「突然か。それは、洛明宮から火が上がる前か?」

「……さあ、どうでしょう。わかりません」

 視線を横に投げる栄貴妃は居心地が悪そうで、そわそわと体を揺らしている。だが思い立ったように必死な形相をして、紫蓮の袖に縋りついてきた。

「陛下はこなたをお疑いになるのですか⁉ こなたは由緒ある栄氏一族の姫でございます! どうしてこなたが陛下のお育ちになった洛明宮に火を点けよなどと命じるのでございましょう。理由がありませんわ!」

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