第33話

 紫蓮は露台から室内に入った。豪奢な寝台に目を向けたが、そこに雪花はいない。寂寥感を押し込めて黒檀の椅子に深く腰かけ、思考の海に沈む。

 何者かが故意に火事を起こした可能性は充分にある。

 張青磁が目にした、栄貴妃の部下という宦官が気になった。

 栄貴妃は虚栄心が強く、慎みに欠ける。初めての夜伽をするのは自分だと豪語して憚らない、という報告を受けている。

 非常に不敬だ。

 誰を夜伽に呼ぶか決めるのは、皇帝の紫蓮である。

 大貴族の栄氏は宮廷で権勢を振るっていた。無視できない存在ゆえに、栄氏の娘に貴妃の位を与えたのだが、栄貴妃には後宮の主たる資質が欠けている。

 度重なる妃嬪への行き過ぎた刑罰を与えることも以前から諫めていたが、栄貴妃には反省の色がない。

 さらには雪花に刑罰を言いつけたとき、紫蓮の怒りは頂点に達した。

 雪花は、紫蓮の愛する唯一の人だ。

 彼女を傷つける者は誰であっても許さない。

 園遊会では会議が長引き遅れたものの、危ういところで雪花を救うことができた。

 だが今後も彼女が同じような目に遭わないとも限らない。ぜひとも雪花を夜伽に指名し、位階を昇格させて彼女の身を守る必要がある。高位の妃嬪になれば、栄貴妃だとて軽はずみに刑罰に処すことはできないからだ。

「……それは俺への言い訳だな」

 独りごちた呟きは、宮の天井に吸い込まれて消えた。

 雪花の身を守りたいのも本心だが、それ以上に、紫蓮は雪花を自分のものにしたいと望んでいるのだった。

 後宮の妃嬪以下、宮女や宦官でさえもすべて皇帝の所有物であるとされているが、それはあくまでも部下という扱いである。彼女らに役職を与え、後宮での身分を保証しているに過ぎない。つまり官吏と同じだ。

 夜伽に呼んで男女の関係を結ばなければ、夫婦とは言えない。

 紫蓮は雪花しか、閨に呼ぶつもりはなかった。

 それは子どもの頃に、彼女を実家から連れ出し、妻にすると言いながら叶わなかった過去を払拭したいためだけではない。

 雪花は白ウサギのごとく愛らしく、心優しい女性だ。

 出会ったときから紫蓮はすぐに雪花を好きになってしまった。

 好きでもなければ、父の命令で蘭家の様子を監視しろと言われたからといって、足繁く通ったりしない。

 当時の紫蓮は九男の皇子で、太子でもなかった。次の皇帝になるとは誰も思っていなかったに違いない。雪花の件で首都に呼び戻されたときは、処罰されるのかとも思った。

 だが、官吏から報告を受けた父は、紫蓮を罰しなかった。

 それどころか、次の皇帝の候補に加えたのだ。

 どうやら父は、紫蓮の行動に気概があると判断したらしい。

 もし皇帝になれたなら、雪花を妻にできる。

 それから紫蓮は必死に勉学や剣の稽古に励み、民のためによい皇帝であろうと努力を積み重ねた。

 やがて病床に就いた父は、次の皇帝に紫蓮を指名した。

 そうして瑞紫蓮は、耀嗣帝として即位したのである。

 さっそく後宮が編成され、紫蓮は蘭家に打診を送った。もちろん、雪花を後宮の妃嬪として迎え入れたいという内容である。

 だが蘭家からは、娘の体調がよくないので、後宮入りはもう少し待ってほしいという返答だった。

 見舞いに行きたいが皇帝となった身では、早々遠出するわけにもいかない。

 部下を送り出して様子を見に行かせたが、蘭家に娘はいないようだという要領を得ない報告だった。

 気を揉んでいるうちに二年が経過し、後宮には名だたる名家から令嬢が続々と入宮してきた。

 皇帝たる者、後宮を持ち、妃嬪を迎えるのは義務である。

 だが紫蓮は雪花にしか興味がなかった。ほかのどの女性とも閨をともにする気はない。いずれ雪花を妻に迎えたら、彼女と子をもうける。ほかの妃嬪は実家に戻って結婚してもよい、と勅令を出そうと考えていた。

 そうしてようやく雪花を後宮に迎えられたのである。

 後宮はしきたりに縛られたところなので、蘭家の格では雪花をすぐに皇后にはできない。最下級の答応が相応と決まったが、寵妃になれば昇格させるのは容易いので、初めの位階はさほど問題ではない。

 川縁で再会したときは、運命が導いたのだと思った。

 とはいえ、様子を見るために講義棟にあえて近づいたのは確かなのだが。

 まずは、宦官と誤解させたことを彼女に謝りたい。

 嘘をつくつもりはなかったのだが、いきなり皇帝と名乗ったら、雪花は怯えてしまうと考えたので話を合わせたのだった。それに紫蓮は『俺は皇帝だ』などと発言したことは一度もないので、あえて身分を明かすのは非常に滑稽だと思ったのだ。

「許してくれるだろうか……いや、今宵はもう来ないのだな」

 再会した雪花は昔と変わらず、美しい銀髪と真紅の瞳を持つ心優しい女性だった。見た目の珍しさに惹かれているのではない。彼女の瞳の奥底にある、穢れなき魂が好きなのだ。

 紫蓮は、人の目を見ると心根を見透かせるという天賦の才があった。

 性根の悪い者は目の奥が腐っている。そして心の美しい者は目の奥底まで澄み切っているのだ。

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