第32話

 懊悩しているうちに、馬車は東の区画へ入った。

 永安宮はもうすぐである。この辺りは上級妃嬪の住む宮が建ち並んでいる。どの宮も豪奢な甍を、月明かりに撥ねさせていた。

 そのとき、馬車の外から大声で訴える人の声が届いた。

 何事だろう。

 雪花は窓から顔を出す。

 すると、ひとりの宦官が慌てた様子で手を振り、行く手を塞いでいた。

 御者が手綱を引いたので、馬車は急停止する。

 がくんと揺れた雪花は必死にしがみついた。

 怒った張青磁は馬車を止めた宦官を怒鳴りつける。

「なにをする! 陛下の夜伽を務める蘭答応の馬車だぞ。退け!」

「ここから先はいけません! 火事でございます。お戻りになってください!」

「なんだと……」

 唖然とした張青磁が首を巡らすと、藍の天に黒煙が上がっていた。どうやら妃嬪の宮から火災が発生したようである。

 ふたりの宦官は通す通さないと、しばらく押し問答を続けていた。

 そうしているうちに、逃げ出してきた侍女や火を消そうとする宦官たちで、瞬く間に道は人であふれた。

「ええい、おまえたち退かぬか。今宵は大事な夜伽なのだぞ!」

 張青磁は人を蹴散らそうと怒号を上げるが、右往左往する人々は指示を聞くどころではない。馬はたたらを踏み、進めずに立ち往生した。

 やがて雪花の乗る馬車の近くにも、黒煙が流れてくる。

「いけません、戻りましょう!」

 雪花が叫ぶと、御者は手綱を操り、馬首を巡らせる。

 歯噛みした張青磁は御者台から下りた。

「わたしは火事の様子を見てきます。蘭答応はひとまず宮へお戻りください!」

「わかりました。お気をつけて」

 雪花は永安宮へ辿り着けず、戻ることになった。

 図らずも今夜の夜伽は避けられたことになる。

 偶然でしょうか……?

 内心で首をかしげつつも、雪花は心のどこかで安堵していた。


   ◆


 炎が鎮火する様子を、紫蓮は永安宮の露台から眺めていた。

 夜空に瞬く星は燦爛と煌めき、後宮は静けさを取り戻したようだ。

「火は消し止められたようだな」

 今夜は雪花を夜伽に迎えるはずだったが、それどころではなくなってしまった。

 彼女を迎えるための馬車に同乗していた張青磁は、火災現場をかけずり回ったのか煤だらけの姿で報告する。

「はい。洛明宮から出た火事は鎮火いたしました。怪我人はおりません」

「それはなにより。……だが洛明宮は無人の宮だ。なぜ火災が発生した?」

「原因は不明です。ただいま調査しております」

 妃嬪が千人いた先代の皇帝とは違い、紫蓮の後宮には上級妃嬪の定員すら満たしていないので、空いている宮がいくつもある。

 無人の宮から火が出るとは不思議なことだった。

 紫蓮は思慮深い双眸を鋭くさせる。

「放火か?」

「わかりません。ですがその可能性も濃厚かと思われます。周辺の宮の妃嬪や侍女に聞き込みを行っております」

「洛明宮の隣は栄貴妃の宮だったな。念入りに調査せよ」

「は……」

 眉をひそめた張青磁は、小首をかしげる。

 紫蓮はそのわずかな仕草をも見落とさなかった。

「なにか気になることでもあるのか?」

「いえ……そういえば、馬車を止めた宦官は栄貴妃の宮の者でした。主の妃嬪を助けもせず、真っ先に夜伽の馬車を止めるとは、あやつはいったいなにをやっているのか……」

「ふむ。その宦官をここへ連れてこい」

「御意にございます」

 張青磁は去ろうとしたが、ふと足を止めて再び拝礼した。

「今宵は大切な夜伽でしたのに、不祥事があり申し訳ございませんでした。今から蘭答応をお呼びになりますか?」

「いや……雪花は無事に答応の宮へ戻ったのだな?」

「はっ。蘇周文に確認させました。落ち着いている様子だそうです。侍女はそばにおります」

「ならば、よい。今夜は休ませてやれ」

 深く頭を下げた張青磁は下がった。

 火事の後始末に追われて夜伽どころではない。雪花は衝撃を受けただろうし、今から夜伽をさせるなど酷なことだ。

 それにしても、初の夜伽に火事が起こるとはなんとも不吉である。

 しかし、これが故意ならば……

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