第31話
夕陽の残滓は山の稜線に溶けて消えた。天には藍の幕が下りている。
雪花は今宵、皇帝の夜伽に指名された。
微笑みを浮かべた鈴明が、雪花の長い白髪を櫛で梳いている。
「皇帝陛下の夜伽を初めておつとめになるのは雪花様ですね。とても名誉なことです」
銅鏡に映った雪花の顔は、物憂げに沈んでいた。とても名誉を賜った妃嬪には見えない浮かない顔だ。
それというのも、すべては皇帝暗殺の密命を背負っているからである。
毒に塗れた唇を持つ雪花が紫蓮に接吻したなら、彼はたちまち命を失ってしまうだろう。
蘭家の悲願は果たせるかもしれないが、雪花は人殺しになる。
そして、紫蓮を永久に失ってしまう。
――そんなこと、耐えられるのでしょうか……
未だに覚悟はつかなかった。
もし皇帝が暴虐な人物だったなら、さほど躊躇しなかったかもしれない。
けれど、皇帝だったのは友人の紫蓮であり、雪花の想い人なのだ。しかも紫蓮が皇帝だと知ったのは、つい数刻前である。まだ気持ちの整理がついていない。
だが、雪花の都合で暗殺を先延ばしにするわけにもいかなかった。
父の内通者は雪花のそばにいて、状況を事細かく観察しているのだ。内通者が誰なのか雪花は知らないが、もし失敗したなら、雪花を殺害するという密命を負っていてもおかしくはない。あの非情な父が、雪花に温情をかけるなど考えられない。内通者の正体を雪花に知らせないことからも、父は雪花を信用しておらず、単なる駒としてしか見ていないのだとわかる。
おそらく、内通者は鈴明ではないかと雪花は思っている。
毎回の食事に毒を入れられるのは、鈴明以外に考えられないからだ。毒を入れるところを見たわけではないが、答応の食事はみな同じものなので、膳房で毒を混入するのは難しいのではないだろうか。
かといって膳房の様子を見たわけではないので、その可能性もなくはないけれど……
「雪花様、なにか気がかりなことでもあるのですか?」
突然、鈴明に声をかけられる。
物思いに耽っていた雪花は、びくりと肩を跳ねさせた。
「えっ、いえ、なにもありません」
「緊張していますよね。答応の部屋では夜伽が行えないきまりになっていますので、いつもとは異なった環境ですが、どうか肩の力を抜いてください」
皇帝の夜伽を務める際、上級妃嬪の場合は宮持ちなので、皇帝は妃嬪の宮へ通うことになっている。だが指名されたのが貴人以下のときは、皇帝は棟へ通わず、妃嬪のほうが永安宮の寝所へ通うきまりだ。
雪花が永安宮へ入ったら最後、そこが紫蓮の死に場所になる。
そして雪花は皇帝を殺した大罪人だ。
これから行う罪を自覚し、ぶるりと体が震える。
どうしよう……私は、紫蓮を殺したくない……
鼻の奥がつんとして、涙があふれそうになる。
泣いてはいけない。鈴明が見ている。暗殺の意思がないと思われてしまう。
どうにかこらえていたそのとき、部屋の戸口に人の気配がした。
「お支度は調いましたでしょうか?」
「は、はい」
雪花が返事をすると、張青磁が入室してきた。彼は丁寧に拱手をする。
張青磁は下級妃嬪の講師も務めている上位の宦官であるが、雪花が夜伽に指名されたとあって、講義とは違い、慇懃な態度だ。
「永安宮までは、わたしが付き添います。わたしは陛下の側近でもありますのでご安心を」
「よろしくお願いします」
夜伽の場になる永安宮へは、侍女は連れていけないきまりなので、宦官に付き添われて赴くのだ。
雪花は椅子から立ち上がった。
伝説の霊獣である猩猩の血で染め上げたと謳われる、猩猩緋の着物に裸身を包み、白髪はさらりと背中に流している。
明かりの入った灯籠を携えた張青磁に、足元を照らされる。
敷居を跨ぐと、煌々とした満月の明かりが降り注いだ。
月明かりの下で雪花の髪は、山の頂に降り積もる白雪のごとく光り輝く。霊獣の血で染めた着物の色に劣らず、唇は毒々しい真紅に彩られていた。
見送る鈴明は頭を下げる。
彼女はなにも言わない。雪花が役目を果たすのを、信じて疑っていないのだろう。
そう思い、雪花は棟の前に待機していた馬車に乗り込む。張青磁は御者台に腰を下ろした。
普段は上級妃嬪などは宦官の担ぐ輿で移動するのだが、夜伽をする妃嬪の姿を見るのは不敬にあたるため、馬車での移動と決められている。
御者が手綱を取ると、ゆっくりと車輪が回り出した。
どきどきと雪花の胸は不穏に高鳴る。
紫蓮がくちづけを求めてきたら、応えなければならない。
でも、それは――
「ああ……どうしたら……」
彼を殺したくない。
では、すべてを打ち明ける?
それもできない。雪花がすべて吐露したら、どうなってしまうのだろう。きっと、両親に汲みしている人々までが処罰を受けてしまう。両親と雪花が処刑されるのは仕方ないとしても、鈴明にまで罪が及ぶことは避けたい。彼女は毒を混入しているかもしれないが、献身的に尽くしてくれたのに。
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