第29話

 指摘された栄貴妃は視線をさまよわせる。かろうじて彼女は呻くように言った。

「いいえ、なにも……」

「ことの詳細は講師を永安宮へ呼んで聞く。俺の目を欺けると思うな」

「御意にございます」

 栄貴妃は深く頭を垂れた。

 ふたりのやり取りではっきりしたが、紫蓮こそが皇帝だったのだ。

 宦官だというのは、雪花の思い違いだ。

 彼は子どもの頃に会ったときから、皇子なのだ。そして雪花と別れたあと、成人して皇帝に即位した。紫蓮の言動と周囲の態度を考えてみれば、わかることだった。後宮へ入ってからは、紫蓮といるときにほかの人と会わなかったので、気付かずにいた。

 なんてこと……紫蓮が耀嗣帝だったなんて……

 雪花がまだ信じられない思いでいると、紫蓮はこちらに向き直る。

 彼は雪花の手を握ったままだ。

 優しい眼差しは、確かに紫蓮だった。

「雪花が『青月夜』を選んだのは、皇帝と妃嬪の悲恋を望んでのことではない……と、先ほど言いかけていたな」

「は、はい。そう言いました」

「では、どのような思いなのか、聞かせてほしい」

 周囲の妃嬪たちは固唾を呑んで、紫蓮と雪花を見守っている。

 雪花は正直に自分の考えを打ち明けた。

「主人公の娘は、来ない恋人を想って川に身を投げたといいます。それは悲しいことですが、自分の身が滅びても、せめて愛する人の幸せを願ったのではないでしょうか。たとえ結ばれない恋であっても、そのように相手を想うことこそ真実の愛ではないかと私は思いました。それを演奏で表現したかったのです」

 言いきると、雪花の胸が昂揚に包まれる。

 自分の想いを伝えられたことに、達成感を得られたのだ。そしてこの想いを、紫蓮が受けとめてくれるという信頼があってこそ言えたのだった。

 穏やかな笑みを浮かべた紫蓮は、ゆっくりと頷く。

「そなたの想いは健気で心優しいものだ。だからこそ『青月夜』は悲恋というだけでなく、そこに真実の愛を見出して人々の心を打つのだろう。俺も、この曲を好ましく思っている」

「あ……ありがとうございます」

「ともに弾こう。そなたと同じ琴で、同じ動きで、ともに好きな曲を紡ぎたい」

 雪花の手を引いた紫蓮は琴の前に導く。

 椅子に腰を下ろした紫蓮は、膝に雪花を座らせた。

「あ、あの、この格好は陛下に対して恐れ多いのですが……」

「俺は、そなたに琴を教えた、ただの紫蓮だ。かしこまらずともよい」

 そう言われても困ってしまう。

 困惑した雪花が顔を赤らめていると、紫蓮は手の甲を重ねた。

 練習で、音を直してくれたときと同じだ。

 すうっと雪花の心から、焦燥も困惑も消える。

 手の甲から、重なった紫蓮の熱が浸透するようだ。鼓動は落ち着きを取り戻し、心が凪いでいく。

 ビィン……と、弦がつま弾かれる。

 幽玄な音色が、もみじの舞い落ちる庭園に響き渡った。

 紫蓮とふたりで紡ぐ悲恋の曲は趣深く、紅葉に滲んでいった。


 園遊会を終えて、答応たちの暮らす棟は喝采に湧いていた。

 刑罰に処されるかと思った雪花が皇帝に救われ、しかも膝に座ってともに演奏したのだ。これが寵妃の前触れでなくてなんであろうか。

 普段から栄貴妃の所行に反感を抱いていた答応たちは、雪花を稀代の英雄のように崇めた。良答応は飛び上がって手を叩いている。

「栄貴妃の悔しそうな顔、見た⁉ あははっ、ざまぁみろだわ!」

 盛り上がる答応たちの中で、雪花は部屋の椅子に座り、複雑な思いでいた。

 演奏が無事に済んだことは嬉しいし、結果としてみんなに喜んでもらえたこともよかったと思う。

 けれど、紫蓮が皇帝だったという事実を、まだ受けとめきれないでいた。

 演奏のあと、紫蓮は側近に促されて早々に去ってしまったので、込み入った話はできなかった。

 まさか、皇帝陛下だったなんて思わなかった。

 衝撃に包まれていたそのとき、雪花を取り囲む妃嬪たちの間から、ふたりの答応がおずおずと顔を出す。園遊会へ赴く前に、雪花に侮蔑を投げた答応たちだ。

「あの……さっきはごめんね。悪気はなかったの」

「そうなのよ。ここは噂話くらいしか楽しみがなくて。この通りだから許してちょうだい」

 頭を下げるふたりに、雪花は微笑を見せた。

「どうか、頭を上げてください。私はなんとも思っていませんから」

 殊勝なふたりに、ふん、と鼻を鳴らした良答応が得意気にふたりを見下ろした。

「謝っておくのは賢明な判断ね。雪花が昇格したら、あんたたちは跪かなきゃならないのよ」

 その言葉に気まずそうな顔をしたふたりは、首を竦めて部屋を出ていった。

 はっとした雪花は彼女たちが謝ってくれた理由を知る。

 皇帝が特別扱いしたからには、雪花が昇格するのだとみんなは思っている。なによりも位階を重視する後宮では、格上の者は神も同然である。それゆえ、今のうちに非礼を詫びておこうと考えたのだ。

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