第27話
「陛下はまだかしらね。せっかく顔が見られると思ったのに」
「遅れているだけではないでしょうか。それとも、なにかの理由で欠席とか……?」
腰をかがめた宦官が、栄貴妃に何事かを伝えている。
それを聞いた栄貴妃は顎を上げ、椅子に凭れた。後宮の主とはいえ、不遜な態度である。
「みなのもの、お聞きなさい。陛下は少し遅れていらっしゃるそうよ。もしかしたら、来ないかもしれないわ」
栄貴妃の言葉を聞いて、妃嬪たちの間に落胆が広がる。
下級妃嬪たちは皇帝の顔を見ることも叶わないので、園遊会が見初められる千載一遇の機会と思い、期待していたのだ。
妃嬪たちの落胆を見た栄貴妃は、楽しそうに唇に弧を描いた。まるで人の不幸を蜜のごとく貪る女王蜂さながらに。
「落胆するのも、もっともね。そなたたち下級妃嬪は、こなたのようにいつでも陛下にお会いできるわけではないでしょうから……そうだわ。蘭答応の琴の音色を聞いたら、陛下が庭園へ寄っていらっしゃるかもしれないわね」
そう言った栄貴妃は、くるりと機械仕掛けの人形のごとく綺麗に作り込んだ顔をこちらに向けた。
「蘭答応、琴を披露しなさい」
「はい、栄貴妃さま」
ごくりと雪花は息を呑む。
皇帝はいないが、園遊会の出し物として琴を演奏することに変わりない。
雪花は答応たちが居並ぶ列を抜け、前へ進み出た。
空の皇帝の卓の前に敷かれた毛氈に、宦官の手により椅子と台座、そして七弦琴が用意される。
「それでは、琴を弾かせていただきます」
万福礼をして栄貴妃に挨拶するが、黙殺される。
彼女は意地の悪い猫のような目で、雪花を見据えていた。
ひとりだけ、ぽつんと用意された琴の前に座ると、にわかに緊張が増した。
弦に手をかけようとしたとき、恵嬪が鼻で嗤う。
「また亡者の呻き声のような琴の音を聞かされるのかしら。耳を塞いでお喋りでもしていたほうが楽しいわ。ねえ、麗嬪?」
ところが同意を求められた麗嬪は、すっと袖で口元を隠した。
ふと恵嬪が上座を見やると、栄貴妃は閉じた扇を口元にかざしている。
「こなたが指名した蘭答応の演奏ですもの。みな、しっかりと聞きなさい」
鶴の一声に、恵嬪は口を噤む。
だが、その表情には愉悦が滲んでいた。
彼女は雪花の下手な演奏を、あとで笑おうという心積もりなのかもしれない。
栄貴妃と恵嬪を見ていた上級妃嬪たちは誰もお喋りをしようとはせず、黙して椅子に座っている。そうすると下級妃嬪が会話するわけにはいかず、庭園は奇妙な沈黙に包まれた。
はらりと落ちたもみじが音を立てるかのような静寂である。
どきどきと、雪花の胸の鼓動は緊張に高まった。
妃嬪たちはもちろん、侍女も宦官も姿勢を正し、雪花に注目している。
あくまでも演奏は園遊会の余興のひとつで、みんなが楽しげにお喋りする中での披露だと思っていたから、こんなに注目されるとは予想外だった。
雪花は人前に出ることに慣れていない。
まして注目される中で芸を披露するなんて、これまでの人生で初めてのことだ。
失敗してしまうのではないか。笑われるのではないか。胸のうちに恐れが湧いてくる。
雪花は胸元を、ぎゅっと握りしめた。
ここに、紫蓮からもらったもみじが入っている。
大丈夫です……紫蓮が、ついていてくれます……
彼がそばにいると思うと、幾分恐怖心は和らいだ。
ひとつ深呼吸をして、心を鎮める。
練習した通りに、落ち着いて演奏しよう。
雪花は弦に手をかけた。
ビィン……と、厳かな琴の音色が静謐な庭園に響き渡る。
想いを込めて、雪花は弦をつま弾いた。
紫蓮の魂を包む込むように。
『青月夜』の主人公の娘は、来ない恋人を想って川に身を投げたという。
悲しい結末だけれど、自分の身が滅びても、せめて愛する人の幸せを願いたい。
雪花はそう願った。
紫蓮に想いが通じなくてもいい。たとえ結ばれなくても、紫蓮には幸せでいてほしい。
それだけが雪花の望みだ。
悲しくも優しい旋律が鳴り響き、庭園にいた者たちは琴の音色に聞き入った。
だがそのとき、栄貴妃の叱責が飛ぶ。
「おやめなさい!」
びくりとした雪花は演奏の手を止める。
顔を上げると、栄貴妃は眉を吊り上げていた。
「これは『青月夜』だわ! 悲恋の曲だなんて、華やかな園遊会にふさわしくない。蘭答応は、陛下と妃嬪の悲恋を願うとでもいうの⁉」
驚いた雪花は動揺した。
園遊会でこの曲を演奏することは、あらかじめ提案されたことだ。雪花が選曲したわけではない。講師は始めから『青月夜』の楽譜のみを提示して、課題曲であると言っていた。
「そんなつもりはありません。講師の先生からは、この曲を弾くようにと指示されたのです。ですから、園遊会の課題曲だと思って……」
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