第25話

 園遊会が終わっても、私と会ってくれませんか? 

 そのようなことを言う勇気は、雪花にはとてもなかった。

 それに紫蓮がこうして雪花に会ってくれているのは、偶然の再会が重なったためなのだ。

 明日は園遊会。つまり、紫蓮と会えるのは今日が最後ということに気付いた雪花は、寂寥感に包まれた。

「雪花。園遊会が終わったら……」

「あ、あの! 指導していただいて、ありがとうございました」

 雪花は頭を下げた。

 それと同時に、鼓動は早鐘のごとく鳴り響く。

 自分が言いたいと思っていたことを、先に紫蓮に言われそうになったから。

 けれど、紫蓮が言いかけたのは、雪花とは別の内容かもしれない。

 それに思いつかないほど雪花は焦ったのだ。

 紫蓮を、好きになりかけている自分がいるから。

 こんな想いを抱いてはいけない――

 自分は後宮の妃嬪であり、彼は宦官なのだから。

 琴を指導してくれたお礼を言って、会う約束など交わさないのが、お互いのためによいのだ。

 紫蓮は黙していたが、やがて嘆息をこぼした。

「頭を上げよ」

「……はい」

 ゆっくりと頭を上げるが、紫蓮の顔を見ることは怖かった。この想いを、止められなくなりそうだったから。

「そなたは俺を避けようとするのだな。あえて言うが、川縁で逃げられたときは傷ついたぞ」

「ごめんなさい……。私は紫蓮に会うのが怖いのです」

「なぜだ?」

「……それは……お互いの立場がありますし……」

 好きになりそうだから、とは言えない。

 もうこれ以上、彼に会わないほうがよいとわかってはいるのに、紫蓮とともに過ごすのは心が浮き立った。

 けれど、嬉しいのに苦しい。

 結ばれないとわかっているので、雪花自身の心もつらかった。

「そなたの言い分はもっともだ。だが俺の話も聞いてほしい」

「はい」

 素直に返事をした雪花は、まっすぐに紫蓮を見る。真紅の双眸を、紫蓮は愛しげに目を細めて見つめた。

「園遊会が終わったら、ぜひそなたに頼みたいことがあるのだ。その願いを聞いてはくれないだろうか」

「あ……そうですか。どんなことでしょうか?」

 紫蓮が言いたいのは、『また会いたい』などという内容ではなかった。早合点した自分が恥ずかしくなったが、彼がなんらかの依頼があるというのなら聞き届けたい。

 紫蓮は首を左右に振った。

「今は言えないのだ。園遊会のあとにしたい」

「わかりました」

 もしかすると、園遊会で演奏を成功させたなら、ほかの場所でも弾いてほしいという依頼だろうか。それならば今は言えないと、彼が言うのもわかる。

 指導してくれた紫蓮のためにも、園遊会の演奏を成功させようと雪花は心に誓った。


 雲が薄く棚引く空に、紅葉が美しく映えている。

 園遊会が開催される日は、よく晴れていた。

 桃色の旗服をまとった雪花は、緊張を漲らせている。

 雪花の髪を両把頭に結い上げた鈴明は心配げな声をかけた。

「息を止めないでください、雪花様」

「……はっ……ふう……今から緊張してしまって、いけませんね」

 つい肩に力が入ってしまい、呼吸を止めてしまっていた。

 緊張してはいけないと思うほど、体は強張ってしまう。雪花は指先を温めるため、手を握っては開くことを繰り返した。

 そのとき、雪花の部屋の前へやってきた蘇周文が拱手する。

「おはようございます、蘭答応。お支度はよろしいですか?」

「ええ、大丈夫です。調いました」

「実はこちらを……さる御方から預かりました」

 袖に手を入れた蘇周文は、小さな白い紙を手渡した。手紙のようだ。

 受け取った鈴明は、それを雪花に手渡す。

「まあ、なんでしょう」

 白い紙はふたつに折られている。とても簡素なものだ。

 開いてみると、そこには一枚のもみじが挟んである。

 それから紙の内側に『雪花へ』とだけ達筆な文字で記されていた。

「これは……」

 紫蓮だ。

 雪花を勇気づけるために、彼が贈り物をしてくれたのだ。

 名を記さないのは、宦官が妃嬪へ個人的な贈り物をするのはよくないという理由からだろう。

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