第22話

 栄貴妃はそばに控えていた宦官に手を振る。合図を受けた宦官は退出すると、すぐに琴を持ってきた。

 七弦琴は子どもの身長ほどの長さで、七本の弦を素手で弾く。

 だが琴に触れたこともない雪花に、どのように弾くのかわかるはずもない。

 広間の中央に置かれた琴を見て、雪花は青ざめた。

「さあ、弾いてごらんなさい」

 栄貴妃の命令なので、断るわけにはいかない。

 おそるおそる前へ歩み出ると、雪花は台座に据えられた琴の前に膝をついた。

 本当に弾けないと証明されたなら、栄貴妃は満足するだろう。

 雪花は弦の一本を弾いてみた。

 だが正しい弾き方ではないらしく、音がほとんど出ない。

 もう一本の弦を弾いてみると、今度は少し大きな音が出たが、綺麗な音色からはほど遠かった。

 妃嬪たちの間から、嘲笑がこぼれる。

 恵嬪が声高に笑った。

「良家の子女ならば琴くらい弾けて当たり前なのにね。ひどいものだわ」

 雪花は実家での不遇を思い出し、悲しくなった。

 もし母が生きていてくれたなら、父は継母と再婚せず、王朝簒奪などという構想を抱かなかっただろう。そうしたら雪花は大切に育てられて、琴を習わせてもらえたのではないだろうか。

 琴をつま弾きながら、雪花は涙した。

 眉を下げた燈妃は、栄貴妃に進言する。

「本当に弾けないようです。もうよろしいのではありませんか?」

「そうね。もういいわ」

 ほっとして弦から手を離した雪花に、栄貴妃は傲岸に告げる。

「でも、園遊会では弾いてもらうわよ。後宮の妃嬪であるからには、琴を弾けないなどと甘えることは許されない。ぜひ陛下に、蘭答応の琴を聞いていただきましょう」

 愕然とした雪花は身を強張らせた。

 園遊会は来月である。

 弾き方すらわからないのに、今から練習したとしても、皇帝を満足させられるほどの腕前になれるとは思えない。

 艶然とした笑みを浮かべた栄貴妃は、朝礼の終わりを告げる。すると妃嬪たちは、いっせに頭を垂れるのだった。


「まったく意地が悪いんだから! 栄貴妃は雪花に恥を掻かせるために、わざとあんなこと言ったのよ!」

 怒った良答応は腹立ちを抑えきれず、手布を床に投げつけた。

 朝礼を終えた雪花たちは答応の住まいへ戻ってきていた。

 良答応が雪花の代わりに怒ってくれるのは、ありがたかった。雪花には育った環境のせいか、怒りの感情を表すことができない。

 今はただ、困るばかりだった。

「園遊会は来月です。今から間に合うかわかりませんけど……せめて練習しないと……」

「ひと月じゃ、どうにもならないわよ。むしろ雪花が弾けなくて陛下の不興を買うことを、栄貴妃は狙ってるのよ」

「どうしてですか?」

「それはね、『後宮に琴を弾けない者がいるのは、こなたの責任です』とか言って、栄貴妃が代わりに弾いて陛下への好印象を植え付けるってわけ。雪花はそのために利用されるのよ」

「そういうことなら、始めから栄貴妃が弾き手になればよいと思うのですが……」

「だーかーら、そこが栄貴妃の性根が歪んでるところなの! ほかの人に恥を掻かせて、自分の株を上げようってわけ。ほんと、むかつくわ」

 ほかにも栄貴妃の底意地の悪さを見ているのか、良答応は怒りが収まらないようで、床に投げ捨てた手布を靴で踏み潰した。それは良答応の持ち物なのだが。

 事情を聞いた鈴明は慎重に口を開く。

「良答応の予測は当たっているかもしれません。七夕のとき、栄貴妃に舞を指示された貴人が、本番で転んで叱責されたのです」

「そんなこともあったわね。あの貴人はなにもないところで急に転んだのよ。おかしいと思うわ。栄貴妃が舞台になにか細工したんじゃないかしら」

「真相はわかりませんが……お詫びにと、栄貴妃が代わりに舞を披露しましたね。ただ陛下はご興味を示しませんでしたが」

 以前も似たようなことがあったようだ。栄貴妃がわざと舞に慣れていない貴人を指名したのかもしれない。

 だが、このままなにもせずに手をこまねいていたくはなかった。

 後宮の妃嬪たる者、琴くらい弾けて当然という意見は正しい。

 不遇な身の上で、琴を習わせてもらえなかった悲しい過去を取り返すためにも、まともに琴を弾けるようになりたい。

 雪花は俯いていた顔を上げ、毅然として言った。

「私、練習します。みなさんの前で恥ずかしくない自分でいたいんです。卓越した奏者というわけにはいきませんけど、頑張って琴を弾けるようになります」

 明確な意思を示した雪花を見て、良答応と鈴明は表情を引きしめた。

「雪花がそう言うなら、練習してみなさいよ。あたしも応援するわ。栄貴妃の思惑通りにななんて、させたくないしね」

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