第20話

「支度はできた、雪花? 遅刻なんてしたら懲罰を食らうわ。さあ、行くわよ」

「は、はい。良答応」

 腰を上げた雪花は部屋の敷居を跨ぐ。

 鈴明を伴い、ほかの答応たちの列に連なり、門をくぐった。

 朝礼の行われる宮は、貴人、常在、答応の下級妃嬪が住む区域から東へ向かい、上級妃嬪の宮が連なる区域の手前にある。ちょうど妃嬪たちの居住するところに挟まれて、後宮内の儀式などが行われる宮があるといった配置だ。

 東が上位と決められているので、位階の低い者は西側というのは常識である。皇帝の住まいとなる永安宮は、妃嬪の宮のさらに東だ。よって指名されなければ、下級妃嬪が皇帝の顔を拝める機会などないに等しい。そうなると高位の宦官に袖の下を渡して推してもらうという方法を取るしか、下級妃嬪が夜伽を務められる方法はないのであった。

 もっとも雪花には独自の事情があり、葛藤もあるので、積極的に賄賂を渡そうという気持ちはなかった。そもそも金銭の持ち合わせがない。

 列を形成した下級妃嬪たちは、総勢百名はいるだろうか。彼女たちはひとつの宮へ吸い込まれていった。

 雪花は良答応に囁く。

「すごい人数ですね」

「そうね。答応だけで五十人くらいかな。でも、これでも少ないわよ。先帝の妃嬪は全部で千人いたそうだから。もちろん生涯で一度も夜伽ができなかった妃嬪もたくさんいるわけだけどね」

 上級妃嬪は定員があるので、千人のうちほとんどは下級妃嬪ということになる。後宮の妃嬪が皇帝の寵愛を得るには、大海で宝石を掴むくらいの強運が必要なのだ。

 朱の柱が荘厳に並び立つその宮の入り口には『万葉宮』と記された額縁がかけられている。

 宮の敷居を跨ぎ、前室を通って奥の広間へ入る。

 広大な広間には、上座に豪奢な紫檀の椅子がひとつだけ置かれていた。

 その椅子を頂点として、左右にずらりと椅子が向かい合わせに並べられている。椅子にはすでに上級妃嬪と思しき女性が数人座っていた。彼女たちは全面に刺繍が施された旗服を着ている。頭に飾っているのも、宝石のついたかんざしだった。位階により服装や装飾品の種類も厳しく決められているのだ。

 雪花たちは椅子の後方となる部屋の入り口近くにずらりと並んだ。

 下級妃嬪には椅子など用意されていない。

 直立の姿勢のまま、両手を重ねてそろえる。

 そのとき、椅子に座っていた妃嬪がじろりとこちらを睨んだ。

「答応のくせに、嬪より遅く部屋に入るなんて不作法だわ。目上の者に対する礼儀がなっていないわね」

 彼女は上級妃嬪の『嬪』のようだ。嬪の定員は六名なので、百人はいる下級妃嬪の雪花たちよりはるかに希少で位階が高い。

 良答応が雪花にこっそり囁いた。

「恵嬪に言い返しちゃダメよ。罰せられるわ」

「はい」

 恵嬪の心ない言いぐさに、言い返したいような表情の答応もいるが、彼女たちは不満を呑み込み、唇を引きしめた。挑発に乗ったら、処罰が下されるからだろう。後宮において位階は絶対なのである。

 すると、向かいの席に腰かけていた妃嬪が優雅に爪飾りを煌めかせて、頭のかんざしを弄った。

「仕方ありませんわよ、恵嬪。身分の卑しい者は礼節なんて知らないのですわ」

「あら、麗嬪は心が広いのね。あなたの実家はそんなに大貴族だったかしら?」

「ほほ。わたくしに矛先を向けるのはどうかしらね。恵嬪のお父上は従八品、わたくしの父上は正七品ですわ」

 ぎりっと、歯噛みした恵嬪は向かいの麗嬪を睨みつけた。

 位階を争う後宮では、たとえ同じ役職であっても火花を散らすようだ。

 やがてほかの上級妃嬪たちもやって来て、椅子が埋まる。その間、雪花たちはずっと立ったままだ。椅子に腰かけた妃嬪たちはお喋りをしているが、下級妃嬪たちは誰もが口を閉ざしている。それもきまりによるものだろう。

 そのとき、宦官が後宮の主の来訪を告げた。

「栄貴妃さま、おなりにございます」

 妃嬪たちはいっせいに膝をつき、拝礼をする。雪花も慌てて周りに倣った。椅子に腰かけていた上級妃嬪たちも椅子から下り、下級妃嬪と同じく跪く。

 美しい宝石のついた花盆底鞋を滑らせて現れた栄貴妃は、豪奢な朱色の旗服を翻し、紫檀の椅子に腰を下ろした。

 それを合図に、妃嬪たちは声をそろえる。

「栄貴妃さまにご挨拶いたします」

 跪く妃嬪たちを満悦した表情で見回した栄貴妃は、ややあって口を開いた。

「顔を上げよ」

「栄貴妃さまに感謝いたします」

 また声をそろえた妃嬪たちはそう述べると、拝礼を解く。上級妃嬪たちは椅子に腰かけ、雪花たちは立ち上がり、もとの体勢に戻った。

 栄貴妃は頭の両側に大きく広がった両把頭に結い上げていた。大拉翅と呼ばれる、特に高位の妃嬪にのみ許される髪型である。そこには数々の眩い宝石と真珠が飾られ、房飾りが垂れていた。

 耀嗣帝が即位して二年なので、当然ながら現在の後宮が生まれてから二年である。栄貴妃の年齢は二十代と思われ、肌は溌剌としている。ほかの妃嬪も年配の者はおらず、みな二十歳前後といったところだった。

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