第18話

「そなたは俺が何者か知らなかったはずだ。俺の姓を訊ねないのか?」

 紫蓮がそんなことを聞くので、雪花はふるりと首を横に振る。

 知ったところでどうなるというのだろう。彼の家がどのような高位だろうと、身分違いを自覚させられるだけだ。

「私は、ありのままの紫蓮を知っているのですから、それだけでいいのです」

 雪花の予想だが、彼は父親の命令で結婚させられたのかもしれない。あるいは、なんらかの事情により家が没落したので、宦官にならざるを得なかっただとか。

 いずれにせよ、根掘り葉掘り聞くわけにはいかない。

 彼にも事情があるだろうし、雪花のほうも、皇帝暗殺の密命のために後宮入りしたなどと打ち明けられないのだから。

 紫蓮は、ふっと優しい笑みを浮かべた。

 穏やかな微笑は、雪花が大好きだった昔の紫蓮のままだ。

「雪花は優しいのだな」

「そんな……紫蓮こそ優しいです」

 私はあなたのことが好きでした、とは言えない。雪花はできる限り、紫蓮の笑顔を目に焼き付けようと彼の顔を見た。

 紫蓮もじっと、雪花の真紅の瞳を見つめている。

 心のうちを見透かされてしまいそうで、雪花は目を伏せた。

 沈黙するふたりのそばを流れる川が、さらさらと流麗な音色を奏でている。

「明日は、初めての朝礼だろう。それが終わればしきたりにより、妃嬪は皇帝の夜伽を務められるようになる」

「そ、そうなのですね」

 雪花はぎくりとした。

 どうして紫蓮は夜伽のことを持ち出したのだろう。彼が計画のことを知っているはずがない。雪花が毒の娘だということも、彼は知らないままのはずだった。

 宦官ならなおさら、知られてはならなかった。

 焦った雪花は言い訳を口にする。

「でも、私は答応ですから、夜伽に指名されることはありませんよ。陛下は女嫌いで、誰とも閨をともにしたことがないという噂ですし」

「ああ。噂に尾ひれがついているようだが、皇帝が未だに誰をも夜伽に指名したことがないのは確かだ」

「だから、大丈夫です」

 なにが大丈夫なのか、よくわからないまま雪花はぎこちない笑みを向けた。

 暗に皇帝暗殺を行うことはないと言いたかったのか、あなた以外の男に抱かれることはないと主張したかったのか。

 どちらとも紫蓮にはっきり言うことはできない。ただ、紫蓮の知る雪花のままでいたかったのだ。

「……そうか。大丈夫なのか」

「は、はい」

 紫蓮は複雑そうな顔をしていたが、納得してくれた。

 だが彼は問いを投げかける。

「もし、雪花が皇帝の夜伽に指名されたら、どうする?」

 なぜそんなことをあえて訊ねるのだろう。

 雪花には選択肢などない。皇帝の妃嬪として後宮にいるのだから、指名があったなら龍床に侍らなければならないのだ。

 そして、毒の接吻により、暗殺する――

 覚悟はまだできていなかった。想像すると恐ろしくて、体が震える。

 小刻みに震える雪花を見た紫蓮は、落ち着かせるかのように、細い背をさすった。

「すまない。酷な質問だったようだ。雪花にはまだ早いかもしれないな」

「いえ、私は、務めを果たさなければなりませんから……」

「無理をしなくていい。だが、夜伽といっても必ずしもまぐわうわけではないだろう。皇帝と話をするだけなら、できるのではないか?」

「はい。話をするだけなら」

 雪花は頷いたが、ふと不思議に思う。

 紫蓮はまるで、皇帝へ推薦する妃嬪を選ぶ権利があるかのように語っている。

 彼はそれほど高位の宦官で、雪花を夜伽に指名させたいと思っているのだろうか。

「……もしかして紫蓮が、陛下に私を推薦してくださるのですか?」

「そうだな。答応の身分はなにかと窮屈だろう。前王朝の皇族とはいえ、現在の蘭家の格では答応が相応ということなのだが、もし夜伽をこなせたなら、皇帝の権限で妃に昇格させることもできる」

「そんな……私はなにも功績を立てたわけではないのに、紫蓮の口利きで昇格するのは、ずるいのではないでしょうか」

「ずるいなどということはない。妃嬪はみなそうやって、高位の宦官に金銭を渡して口を利いてもらうのだ」

 はっとした雪花は懐に手をやった。

 紫蓮は金銭を要求しているのだ。

 だが実家からは衣装はもちろん、金銭なども渡されていない。後宮での食事や衣服などはすべて支給制なので、買い物をするようなことがないから必要ないと思っていたが、袖の下を渡すための金銭を用意しなければならないのだった。

 ところが紫蓮は、がしりと雪花の手を握りしめた。

 彼は真摯な双眸で言い募る。

「すまない。誤解を招いたようだ。俺は金銭をもらおうとしたわけではない。ただ雪花の身を案じているだけなのだ」

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