第17話

 下女として置いてもらえないかと思っていたが、まさか紫蓮が妻に迎えたいと思っていてくれたなんて。

 それだけ雪花に想いを寄せてくれているということなのだろうか。それとも、この場を逃れるための方便なのか。

 だが男性は驚くことはなく、代わりに深い溜息を漏らした。

「今の紫蓮様のお立場では、蘭家の娘を妻にすることはできません。おそばに置くことも許されません。ですが、もしどうしてもとおっしゃるなら、紫蓮様が皇帝になって、その娘をお迎えください」

「皇帝に……俺が?」

「さよう。皇帝陛下の命令は絶対です。そのお立場ならばわたくしも、蘭家の者も反対できないでしょう」

 瑞国の皇帝になど、なろうと思ってなれるものではない。つまり男性は、諦めろと言いたいのだ。

 それを悟った雪花は俯いた。

 なんとなくわかってはいたが、やはり紫蓮は後見人を説得できていなかった。雪花をかくまうことを父親に知られたら、彼の立場が悪くなってしまう。きっと、両親が決めた婚約者などがいるのだろう。

「おわかりになりましたね。さあ、もうお休みください」

 そう告げた男性は部屋の外に控えていた下男たちに合図を送る。

 彼らは「失礼いたします、紫蓮様」と言うと、それぞれが彼の体を押さえつけて拘束した。

「なにをする、離せ!」

 紫蓮は隣の寝室へ連れていかれた。暴れる彼が心配になった雪花は止めに入ろうと腰を上げるが、後見人の男性にてのひらで遮られる。

「あなたはこちらへ。蘭家の者に迎えに来てもらいます」

「……はい」

 仕方なく、雪花は従った。ほかにどうしようもなかった。

 寝室から、紫蓮の声が聞こえた。

「雪花! 必ず迎えに行く、待っていてくれ!」

 その言葉だけで充分だった。彼は将来を約束された身分なのだ。これ以上、不幸な雪花がまとわりついていたら、迷惑がかかってしまう。

 廊下を歩きながら、前を行く男性に雪花は頼み込んだ。

「あの……私が無理を言って連れてきてもらったのです。紫蓮はなにも悪くありません。どうか彼に罰を与えないでください」

「あなたが悪いことはわかっています。もう紫蓮様に近づかないでください。紫蓮様が蘭家を訪れるのも、終わりにします。よろしいですね」

「……はい。わかりました」

 もう、紫蓮に会えない。

 逃亡が失敗したことよりなにより、そのことが、もっとも悲しかった。

 そして父が迎えに来て、家に連れ戻された雪花は小屋に閉じ込められた。

 父の宣告した『悪いこと』とは、このことを暗示していたのかもしれない。紫蓮をそそのかした罪として、雪花はその後十年間、監禁生活を送ることになる。

 紫蓮はどうなったのか。彼の正体は何者だったのか。

 雪花はなにひとつ知ることはなかった。


   ◆


 子どもだったときは悲しい別れを経験したが、紫蓮と再会することができて、雪花は安堵していた。不遇だった雪花に手を差し伸べてくれたのは、彼だけだった。逃亡は未遂に終わったが、一緒に逃げるという約束を、紫蓮は果たしてくれたのだから。

 紫蓮が無事でいてくれただけで、雪花は報われた。

 再会した翌日、約束通りに雪花は川縁を訪れた。紫蓮が来てくれることは疑わなかった。

「雪花。待たせてすまない」

「紫蓮!」

 彼はどこからかやってきた。昨日とは違う服だが、上等な長袍をまとっている。

 下級宦官はみな同じ制服なので、上位の宦官なのかもしれない。

 視線を合わせて向き合ったふたりは、自然と微笑を浮かべた。

「昨日は雪花に言い忘れたことがあった」

「なんでしょうか?」

「十年前の謝罪だ。俺はそなたを、蘭家から連れ出すことができなかった。あのときの俺の立場では、妻を決める権限がなかったのだ」

 そう言った紫蓮は雪花の足元に跪いた。息を呑んだ雪花は、慌てて身をかがめる。

 上位の宦官を、答応が跪かせるなど許されない。それに男性が女性に対して膝をつくのは、一般的には求婚するときのみだ。紫蓮のような成年男性が謝罪のために跪くのは、屈辱を伴う行為であり、通常では考えられないことなのである。

「お願いです、やめてください。私はあのときのことを恨んではいません」

 紫蓮を立たせると、彼は雪花を促して木陰に入った。

 木陰の大きな石に、ふたりは並んで腰を下ろす。

 ここなら落ち着いて話せそうだ。

「そうか。だが俺はずっと悔いていた。もっと早く雪花を迎えに行きたかったのだが、事情があってな。あとあとすぐに父の命令で、首都に戻されたのだ」

「そうなのですね……。どうしているかなと思っていましたが、紫蓮が元気だっただけで私は嬉しいです」

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